001.時計


 どったんばったん。
 騒々しいその物音に、清々しいとは程遠い気分で彼女は目を覚ました。
 開け放たれた窓からは、日の光に暖められた風が部屋の中へとそっと舞い込む。
 風に煽られて白いカーテンが揺れ、淡い色をした朝日がそこから零れ入る。
 きらきらと零れた光に照らされ彼女は小さく身じろいだ。
 ふわりと波打つ薄桃色の髪がその動きと共に揺れ、白い瞼が薄らと持ち上げられて、その下の紅茶色の瞳が姿を見せる。
 バスケットを使って設えられた小さな簡易ベッドから、むくりと起き上がったその体躯は頭から足先まで、子供の頭ひとつ分ほどしかない。
 彼女は俗に妖精と呼ばれる生き物だった。ただし、そう呼ばれる者達に総じて存在するはずの半透明の翅は、彼女の背には存在しなかったけれども。
 どちらにせよその姿を見れば、彼女を妖精と形容する他はないだろう。
 ぱちぱち、と数度瞬きをして彼女は辺りに視線を巡らせた。そしてすぐに見つかる音源。
「……アンリ、一応何してるか聞いてみてもいい?」
 彼女の視線の先。先程から喧しい音を休みもなく奏で続けている張本人。
 ぼさぼさのくすんだ金髪。ひょろりと縦にばかり長い体躯。
 古びた色の服を身に纏う青年は声に振り返りもせず作業を続けていた。
 代わりに声だけが彼女に返ってくる。
「マリィ、君には僕が何をしているように見えるの?」
 手に持った小瓶を電灯に透かしながら、彼はやる気だとか覇気だとかが全く感じられない声音で答える。
 疑問に疑問を返したアンリに彼女は小さな整った顔を歪めた。彼女――マリィは暫し考え込むように首を傾げた後、答える。
「荷物をひっくり返して部屋を散らかしているように見えるわ」
「……せめて荷物を整理していると言ってくれ!」
 その返答があんまりだと思ったのか、アンリは漸く後ろを振り返った。
 右は青、左は赤茶の、珍しい虹彩異色症の瞳がマリィを見据える。
 しかしマリィは悪びれもせずに肩を竦めて言い返した。
「だって、どう見たって片付けをしているようには見えないわ」
 彼の使っていた人用ベッドの上には、鞄の中身をそのままぶちまけたとしか思えない量の荷物が無作為に散乱していた。
 これで整理をしていると言われても説得力の欠片もない。マリィの主張はもっともなものであった。
 分が悪いことに気がついたのかそれとも不毛な会話であると思ったのか、アンリはそれに答えずにひとつ溜息をついた。
 くるりと振り返り、再び黙々と荷物の整理だかを始める。
「でも何で、急に荷物の整理なんか始めたの?」
「旅の間に随分と荷物が増えたからね。重たくて仕様がないんだよ。だから少し整理して、いらないものは処分してしまおうかと思って」
 なるほど。マリィはアンリの言葉に納得した。
 何処かの村の特産品だとか言う木彫りの人形(しかも微妙に可愛くない)然り、丸い石を幾つも繋げて作られたブレスレット(持っていると呪われそうだ)然り。
 ぶちまけられた荷物の中には、明らかに自分にとっても彼にとってもどうでもよさげな品が多数存在した。
 アンリはそれらをひとつひとつ摘み見ては、ひょいひょいと必要な物とそうでない物とに分別していく。
 左右に適当に放り投げている、とも取れたが。
 マリィからは見れば、それはどう見ても不必要だと思われるものが両方に混じっているため、どちらが必要とするものなのか判別つけ難い。
「とうっ」
 威勢のいい掛け声と共に、マリィはベッドの上から飛び降りた。着地先はアンリの肩の上。
 若干勢いづきすぎて前へとずり落ちそうになるが、そこは何とか踏み止まる。
 きょときょとと左右に視線を巡らせると、何か気になるものでもあったのか首は右に向けられたまま止った。
「ねぇアンリ、これは何?」
 言いながら、アンリの肩を滑り台にしてマリィはベッドの上に降りる。
 安宿の硬いベッドも小さな彼女からしてみれば、よく跳ねるふかふかのクッションのようなものだ。
 白いシーツの上に立ち上がると、マリィはてとてとと何かに向かって一直線に駆けていく。
 やがて辿り着いた先で彼女が両手で触れたものは、丸い銀細工の何かだった。
「それは時計だよ」
「時計? 随分手の込んだ細工の時計ね」
 彼女の言う通りその銀細工の懐中時計には、随分と細かい装飾が施されていた。
 複雑に絡み合った蔦模様。造りがしっかりしているのか、見る限りにも結構な重さがありそうだ。
 残念ながら手入れされていなかった所為か表面が薄汚れてしまっているが、きちんと手入れをして持っていく所に持って行けばそれなりの額になりそうな感じがした。
「あら、でもこれ動いてないみたいね」
 銀時計に耳をくっつけてマリィが言う。
「時計の使い道は何も時を刻むことに限られたものじゃないよ」
「じゃあ他にどんな風に使うの?」
 アンリは何も答えずただその顔に曖昧な微笑を浮かべた。未だマリィが引っ付いたままの時計をひょいと摘み上げる。
「きゃ」
 小さな声を上げてマリィが時計から剥がれ落ち、恨みがましいめでアンリを見上げたが彼はそ知らぬ顔で時計を眺めている。
 彼の細長い指先が縁の辺りをなぞると、ぱか、と音を立てて時計の蓋が口を開けた。
 そこにある“何か”を見た瞬間――何かがあったのだろう。そうでなければ説明がつかないから――アンリの表情が若干変化を見せる。
 顔に浮かぶ淡い微笑は代わりない。だがそこには明らかに、今しがたまでとは違う何らかの感情が入り混じっていて――そう、それは郷愁。
 遠い昔を懐かしむような、そして何処か憂うような表情で彼はそこにある“何か”を眺めていた。
「何が書いてあるの?」
「別に何も」
 言って時計の蓋を閉めたアンリに『そんなことあるもんか』とマリィは言い返しそうになって、やめた。
 そんな表情をしておきながら、何もないなんてことあるはずがない。
 けれどそれを言ったとしたら今度は『そんな表情ってどんな表情?』と聞き返されそうだ。そしてそれに答えるのは何となく躊躇われた。
 それを聞くことは彼の中の、彼女の知らない古傷に触れてしまうような、そんな気がして。
 マリィは『ふぅん』とわざと気のない返事を返すと、辺りに散らばる別のものを物色し始めた。

 完全に興味をなくしたかのように振舞う彼女の態度に、アンリはひとつだけ小さな息を吐いた。
 それは甘えなのだとわかっていた。いつも曖昧な笑みで話を誤魔化せているのは、ひとえに彼女の優しさ故で。
 その優しさに自分は甘えているのだということもわかっていた。全てを語ることができないのも自分の弱さ故だということも。
 ただ、もう少しだけ。
 もう少しだけでいいから、この微温湯のような心地よい世界にいたかったのだ。
 アンリはもう一度だけ手の中の時計を見つめた。
 時計の使い道は、何も時を刻むことに限られたものではない。
 時計は時を刻むと同時に、時を留めておくこともできる。
 中に刻まれているのは、遠い昔、一人の少年が白壁の牢を抜け出した日の日付。
 時計が留めた時はその時の、その瞬間だった。


06.10.857 Jailbreak Commemoration Michel
857年10月6日 脱獄記念 ミシェル