033.牢の囚人


 陽が堕ちる。
 夜が来る。
 星が謡い、
 月が囁く。
 無音の世界から彼は窓越しに、風に煽られ木々がざわめく様を見ていた。
 目を凝らせば彼の目にしか映らない光が灯火のように揺れ、光の主が彼を見て、彼にしか聞こえない声で囁きを交わす。



“みてるよ、みてる”
“ひとのこがわたしたちをみてる”
“ひとのこがひとのめじゃないめでわたしたちをみてる”
“あれはなんのめ”
“ひとのめじゃないよ”
“かたほうだけはひとのめ”
“でももうかたほうはひとのめじゃない”
“じゃあなんのめ”
“ひとのこのひとのめじゃないあれはなんのめ”
“あのめはきっと――”



 扉が開く音に、その会話は途切れた。会話と言っても、聞いていたのは彼一人だけ。
 それは他の者には決して聞こえはしない、声。
 少年は真っ白な部屋の窓際に座って、どこを見るでなく虚ろに窓の外を眺めていた。

 その白い部屋は少年にとって、確かに牢獄だった。
 部屋の壁は隅から隅まで斑ひとつなく白に染められていた。
 壁も戸も窓枠も、その部屋そのものを構成する物質は全て白に染められていた。
 そしてその白を覆うかのようにその部屋には何でもあった。
 たくさんの本、たくさんの遊具、世界地図も天体模倣図も、それらは壁を埋め尽くさんばかりに部屋の中に所狭しと並べられていた。
 その部屋には何でもある。少年が望めば更に与えられただろう。
 だがそこは確かに、少年にとっては牢獄だった。
「母さん」
 少年は部屋に入ってきた人物に向かって声をかけた。
 今更ながらに思うが、彼は自分と、この女性、そして常に部屋の扉の外にいる人物以外の人間を見たことがなかった。
 しかも扉の外にいる人物――恐らく彼が逃げ出さないように見張っているのだろう――は、例え彼が声をかけたとして、それに一度たりとも答えたことはない。
 つまり少年は生まれてからこれまで、自身と、母親だと名乗る女性以外の声を聞いたことがなかった。
 いつからか、と問われれば物心ついたころから、としか答えようがない。
 もしかしたら生まれた時からなのかもしれない。
 嵌め殺しの窓の外に、月が昇った。
 彼が生まれてから、4362回目の月が昇った。
 何故わかるのか、と言えば、それは彼の母親がその部屋にやってくるのは誕生日と、毎月の初めの日だと決まっているからだ。
 彼に自由はなかったが、知識だけは豊富にあった。
 何せ部屋の壁の半分近くは本で埋まっているのだ。そして、それらを読む時間も彼には掃いて捨てるほどにあった。
 無駄な思考に費やす時間ならいくらでもあった。
「母さん、僕はいつになったらここから出られるの?」
 89回目になるこの問いかけ。びくりと肩を揺らす母の姿が一ヶ月前のそれと全く変わらないのが、酷く滑稽に見えた。
「貴方が聖歌を全て歌えるようになったらね」
「もう全部覚えたよ」
「じゃあ、聖書の内容を全部暗唱できるようになったら」
 またか、と少年は母親には気づかれないよう小さく息を吐いた。
 もう何年も前から繰り返されてきた、似たような問答。
 いつになれば外に出られるのか、と彼が問えば、母はひとつ課題を与える。
 だがそれを成し遂げたからといって、少年が外に出してもらえることはない。
 ひとつ成し遂げればまたその次、それは徐々に難易度を上げながら、決して終わることはない水掛け論のように。
「……わかった、明日から頑張って覚えるよ」
 覚えたところで、きっと外に出してもらえるわけではないのだろうけれど。
 どちらにせよ彼には他にできることが何もなかった。
 何もかもが揃えられている、しかし何一つ存在しないにも等しいこの部屋で、ただ月が昇り沈むのを数えるだけ。
 気が狂いそうな世界の中で、だが少年は淡々と毎日を過ごしていた。
 もしかしたら既に狂っていたのかもしれない。
「ねぇ母さん」
 少年は母の方を振り返らずに語りかける。彼の視線は窓の外に向けられたまま。
 いつ来ても同じ暗い表情を浮かべたままの母親よりも、毎日ほんの少しずつでも違う顔を見せてくれる月の方が彼にとっては優しく思えた。
 母は必要以上に彼に近づかない。彼もまた、窓際からそれ以上母に近づくことはなかった。
 彼の問いかけに『何?』と問い返した母の声音は、僅かばかり震えていた。
「僕はどうして、外に出ちゃいけないの?」
 彼はその答えを知っていた。
 彼はその答えを知っていた。
 外に漂う彼にしか見えない者達の囁きの続きも、恐らく彼は知っていた。
「……神が、お怒りになっているからよ」
「どうして? だって僕は生まれてから今まで悪いことなんて何もしていないのに」
 少年の声はどこまでも透明な。
 しかしそれは決して無垢ではなかった。
 答えを知っていてそれでもなお、追い詰めるかのごとく問いかけるそれは、無垢を気取る道化の詰問だった。
 母は何も答えない。答えられないと彼は知っていた。
 だって神は彼の存在そのものを許してはいないのだから。
 ――化物。
 今まで聴いた数多の言葉の後にそれが続くことに、少年は随分前からずっと気づいていた。
 見えない筈のものが見える赤い右目、聞こえる筈のないものが聞こえる耳。
 そんなものを持っている自分はきっと“化物”なんだろうと。
 現に母は、見えぬ筈のものが見える彼の右目を嫌った。
 嫌いだと口にすることはなくとも、その赤い瞳と目が合うだけで彼女は怯えたように目を逸らす。
 聞こえない筈の声が聞こえると、それを告げた時も同じだった。
 そこに浮かぶのは明らかな嫌悪。もしくは恐れ。
 そこまで厭うのならばいっそのこと――
「――剣が欲しいな」
 小さくても大きくても、いっそ果物ナイフでも構わないのだ。
 人を傷つける武器となり得る物なら、何でも。
「剣が欲しい」
「駄目よ」
 恐らく彼女は勘違いをしている筈だ。彼の言葉が真に意味することを。
 少年はその永遠に続くかに思われるくだらない問答に、酷い倦怠感を覚えた。口唇からは年齢にそぐわない重い溜息が零れる。
 窓の外ではちらちらと、見えざる者達が多数明滅していた。
「……今日はもう疲れたから寝るよ。明日から頑張って聖書を覚えなきゃいけないしね」
 平坦な口調で告げられた言葉に母は『そう』と一言。
 その言葉には多分に安堵が含まれていたことに気づいて、気づいてしまった自分自身に吐き気すら感じ、苦々しげに唇を噛む。
 『また来るわね』という母の言葉を、少年は聞こえないふりをした。
 彼女が部屋に入ってから出るまで、終ぞ彼は窓の外から目を外すことはなかった。
 外の世界で自由に舞う者共が、明滅と共に再び囁きだした。



“どうしてあなたはそんなところにいるの”

「ここから出られないからさ」

“どうして”

「いつも部屋には鍵がかかってて中からは開かないんだ」

“どうしてそとにでようとしないの”

「だから――」

“そのきになればいつだってあなたはそとにでていけるのに”

「…………」

“どうしてあなたはそんなところにいるの”

「煩い」

“あなたはただこわいだけ”

「煩い煩い」

“じぶんがひととちがうのだとみとめるのがこわいだけ”

「煩い煩い煩いっ!!」



 叫びながら、どん、と少年は強く窓を殴りつけた。
 魔道強化された硝子はその程度ではひびひとつ入らなかったが、音を通さない筈の窓越しに聞こえる声は途端に止んだ。
 彼は酷い頭痛と吐き気を覚え、倒れ込むようにベッドの上に横になった。
「何を考えてる」
 彼は語りかける。他の誰でもなく自分へと。
「何を考えてる。
 わかってるはずだ。
 お前は人じゃない。
 お前は人じゃない。
 お前は人じゃない。
 お前は――お前は化物だ、“ミシェル”」
 彼の意識は、そのまま深遠の闇へと堕ちて――


***


 目を開けてすぐ視界に入ったのは、真っ白な天井だった。

「アンリ!」
「うわぁ!?」
 耳元で聞こえたヒステリックな叫び声に、アンリは驚きの叫びと共に目を覚ます。
 弾けるように飛び起きると声の主を探して辺りを見回すが、それらしき人影はどこにもない。
 と言うかまずここが何処なのかがわからない。自分はあの見慣れた白い部屋にいたはずで――
「…………」
 ふと思うことがあったらしく、彼は自分が倒れていたであろう辺りに顔を向けた。
 そこにあったのは緩く波打つ薄桃色の髪と、淹れたての紅茶の色をした瞳を持つ小さな人の姿。
 マリィは何故か怒ったように眉根にしわを寄せ、しかし瞳に涙を溜めてアンリをじっと睨みつけていた。
「えっと……何があったんだか、聞いてもいいかな?」
 ぐりぐりと首を回して辺りを観察するに、そこはどうやら図書館らしい。
 前後を囲うように本が所狭しと並び、何故か彼の傍には倒れた脚立と散乱した大量の本があった。
 流石に倒れる以前の記憶が全くないというのはまずいのではないだろうか。思ったアンリはマリィを掌の上に拾い上げて問いかける。
「何があったも何も、アンリが脚立の上でなんか本を読もうとするから、途中でバランス崩して落っこっちゃったのよ」
 『その上から更に本が落ちてきて』と、そこまで聞いた時点でぼんやりと記憶が戻ってきた。
 そういえば調べものをしていて、目当ての本を見つけて持って降りるのが面倒でその場で読んでいたような気もする。
 更にちょっと離れた場所にある本をそのまま取ろうとして、脚立がぐらついたような気もしないでもない。
 更に更に、そのままバランスを崩して落っこちたような気も――
「マリィ、君は怪我はないのかい?」
「私は大丈夫よ。それよりアンリ、貴方は大丈夫? 頭大丈夫?」
「……その言い方何か引っかかるなぁ……今話してる会話がまともな会話なら、多分大丈夫だと思うよ」
「じゃあ大丈夫ね。多分」
「多分か」
「多分よ」
 掌の上で仁王立ちするマリィに苦笑して、アンリは彼女を自分の肩の上に乗せた。
 定位置に戻ったマリィが、視線を上げてアンリと目を合わせ、問う。
「ちょっとうなされてたみたいだったけど、夢でも見てたの?」
「うん? そうかな……よく覚えてないや。それより、現実問題は……」
 口篭りながらも立ち上がったアンリは、自分の周りを見渡した。
 そこにあるのは倒れた脚立と、脚立に引っかかって零れ落ちた本の山。結構高い所からも落ちているようだ。
「……これ、どうしようかな」
「頑張ってー」
「薄情者……」
 恨みがましく言っては見たものの、実質アンリの掌ほどの大きさしかないマリィに本を運ぶどころか、持ち上げることすらできるはずがない。
 やれやれと肩を竦めると、アンリは不意に目を斜め上へと向ける。
「と言うことだから、悪いけど手伝ってもらえないかな?」
 彼の視線は、そこにある灯火のような小さな二つの光へと向けられる。



“いいよ”
“いいよ”
“とくべつなこだからね”
“とくべつなひとのこだからね”



 一瞬、部屋の中だと言うのに強い風が吹く。
 それも僅かの間で、風が収まった頃には床に散乱していた筈の本は、元通り前後を囲う本棚にびっしりと陳列されていた。



“とくべつね”
“とくべつだよ”



 最後の声が聞こえた後には、二つの光は既に何処かに消え去っていた。
「ありがとう」
 アンリは穏やかに囁くと、いつものようにその顔に柔らかな微笑を浮かべた。















「でもアンリ、この本、バラバラに入っちゃってるわよ」
「…………気づかなかったことにしておこう」
「そうね」