移ろい征く空の色
Side Story

Rusty Sword




 キィン、と刃のぶつかる澄んだ音。衝撃の伝わるその瞬間、手の剣を僅かに引き衝撃を殺すと、すぐさま再び力を入れて薙ぎ払う。
 握力の差か、それとも単純な技量の差なのか、剣は打ち出したように空を切り裂いて弾け飛んだ。無論俺のではなく、相対する男の剣が。
 男の顔は一瞬驚愕に、そして見る見るうちに恐怖へと歪んでいく。男が逃げようと身を捩るより早く、剣はその心臓を深く貫いていた。既に幾度となく繰り返されたその所作に躊躇いはない。
 苦悶の表情を浮かべ、鬼のような形相で息絶えた男。その姿を感情のこもらない平淡な瞳で見下ろす俺を、人は悪魔と罵るのだろうか。
 刃を伝って手に触れた血はまだ温かかったが、人を斬るのに慣れすぎた俺は最早何を感じることもなかった。


***


 初めて人を殺したのはいつだったか、俺は知らない。
 ずっと前からこうしていたのかもしれないし、もしかしたら違うのかもしれない。
 俺には数年前より以前の記憶が全く存在しなかった。
 ただ、体が覚えている記憶は、以前の俺も常に何かを殺し続けて生きていたのだという事を証明していた。
 手に伝う血の生暖かさを、生き物の肉を貫くその感触を、既に苦痛に感じない、この体は。
 人間を殺すことに対する躊躇は、全く無い。

 俺に残された最初の記憶、その瞬間には俺はもう人を殺していた。
 正確には、どれが最初なのかはわからない。一番古い記憶を呼び起こそうとすると、浮かび上がるのは数多の人の死に顔だった。
 思い出す度に違う顔の。最早どれが最も古い記憶かはわからない。
 追いかけてくる武器を手にした人間達。何故追われるかも忘れた俺は、それでもただひたすら生き続けていた。
 疲れ果てた脚を動かして、息を吐く度に鳴る喘鳴を聞きながら。
 血に濡れ、今にも手から滑り落ちそうな剣の柄をそれでも強く握り、刃を振りかざす人間達を次から次へと斬り捨てて、俺はただ、生きていた。
 死んだ方が楽かもしれないと、そう思うほどの絶望の中で。それでも俺は人の命を奪ってまでも、生き続けていた。

 最早殺すことに何の感情も湧かず、ただそこにあったのは赤く濡れた掌と、まだ死ぬわけにはいかないという理由も知れぬその想い。


 そして。
 この赤く染まった手ではもう抱きしめてやることは叶わないと。


 そんな小さな、寂しさと後悔だけだった。
 抱きしめてやりたいと、そう思ったのは誰なのか、それすら思い出せはしないというのに。


***


「……スウォード?」

 少し高めの少年の声が呼ぶ。
 ……誰を?
 その名は、誰を指し示す名だったろうか?

「スウォード!」
 肩を掴まれて、俺は振り返る。反射的に剣を相手の喉元に押し付けそうになるが、意識を総動員させてそれを阻止した。
 つい先刻刺し殺したばかりの男が、まだ剣に刺さりっぱなしだったのが幸いだった。そうでなければ意識するよりも早く、刃は少年の喉元に押し付けられていただろう。
 それでも意識を管理下に置くその一瞬の間に、刃は男の体から抜かれている。傷口から噴き出した血が飛沫となって服に飛び散った。
 少年の服にも血はついたが、彼は全く気にする様子もなかった。病気でもうほとんど見えないのだという、白く濁った瞳は、それでも真っ直ぐに俺を見ていた。
 たまに、その視線がどうしようもなく居た堪れなくなることがある。
 その瞳はどこか、失くしたものに酷く似ているような気がして。
 何かを思い出せそうで、けれど何も思い出せない。
 微かに感じる焦燥にも似た感覚を、苦虫を噛み潰したような表情とともに必死に抑えつける。
「珍しいね。君が戦いの最中に気を散らすなんて。……とはいっても、もう終わったといっても問題ない状況だったけど」
 少年が辺りを見渡す。いくつもの死体が転がる中、そこで動くのは彼と自分の二人だけだった。
 俺は何も答えなかった。答える理由はなかったし必要もない。言うべき言葉もまた何もなかった。自分が何も言わないからといって、少年が機嫌を損ねることなどないことも知っている。
 それでもなお、真っ直ぐに俺を見つめ続ける少年の瞳が本当に居た堪れなくなって、俺は視線を逸らした。
 それは無意識でもあり、また意識的でもある行動だったのだ。
 失くしてしまった記憶を取り戻したいと、そう、思っているのは確かだ。けれど。
「……何か、思い出したの?」
 見つめる瞳が微かに揺らぐ。
 強いのに、弱い。
 時にどうしようもなく辛くなるのに、その瞳は嫌いにはなれなかった。

 それはきっと似ていたから。

 記憶がなくても心が憶えている、かつての俺が持っていたもの。
 先が見えずに、どうしようもなく立ち止まっていた俺を導くように照らす眩い程の蒼い光に、たとえ色は違えどそれはとてもよく似ていたから。
 そしてきっと、足を踏み出すすぐ先すら見えない、俺自身にも。

 俺は小さく首を横に振って見せた。今はそれで充分だった。
 今はまだ、何も、知らないままの俺で。
 いつしか心に張り付いて取れなくなった錆を剥がす、その存在が現れるまでは。
 その時まではどうか、このままで。

 俺は錆びついた剣のままで、それでも、お前の傍に在り続けよう。