うしろを振り向いてはいけない。
 少女は常にそう、男に言い含められていた。
 少女は親代わりの男の言葉に、言われるままに従っていた。
 少女にとって、自分を育て守ってくれる男は絶対の存在だった。
 少女に対してそう言った時、男は常に、少女の後ろに立っていた。
 少女の後ろで、男は一人背後に迫る闇と向き合っていた。
 少女の後ろで、男は一人闇に潜む影と闘っていた。
 少女は、そのことにずっと前から気づいていた。
 少女はそのことを知りながら、あえて男の言いつけを守っていた。

 うしろを振り向いてはいけない。

 そこにあるのは、暗く醜い闇だけだから。紅い血に淀んだ果てなく暗い世界だけだから。
 振り向いたら最後、あとは紅い闇に呑まれるか、それとも紅い闇を受け入れるか。その二者択一を迫られる他ないから。
 暗闇の底は果てしなく、どこまでも深く遠い。気を抜けば受け入れたつもりの闇に沈んでしまうから。
 幼い少女に、その選択はあまりに酷だ。そう、男はずっと思っていた。だから男は孤独に少女を守り続けていた。
 闇に足を取られてしまわないように。紅に囚われてしまわないように。世界に喰われてしまわないように。

 うしろを振り向いてはいけない。

 男は少女に、その選択をさせたくはなかったから、その言葉を繰り返した。
 幾度その闇を退けようと、闇は何度でも彼らの足元まで迫ってくるだろうと知っていたけれど。
 たとえごく普通の、慎ましやかな幸せを得ることは難しかったとしても、それでも。
 少女の前にある光が、たとえまやかしのものであったとしても、偽りのものであったとしても。
 男は少女に、それがほんのわずかなものであっても、光の中で、希望の中で生きていてほしかったから。

 けれど、その聡明な少女、は。


「強くなりたい」
 少女は囁いた。未だ幼い少女の瞳にはそれにそぐわぬ、強い意志が秘められていた。
 相対した男は何一つ言葉を紡げなかった。言葉に込められたあまりにも強いその想いに、紡ぐべき言葉を見つけられなかった。
 もはやそこには、覆し難い決意しかなかった。
 吐き気をもよおすほどの血臭の中、血だまりに自ら足を踏み入れた少女は、凛とした立ち姿を崩すことなく男を見据えていた。
 漆黒の瞳が、これまでに見た誰よりも鋭い光を持って、男を貫く。
「強く、なりたい」
 男はただ小さく頷いた。言葉は、必要なかったから。また、口を開けばやめろと言ってしまいそうだったから。
 たとえ無駄だと知っていても、決して口にせずにはいられなかっただろうから。
 男は無言のまま少女に向けて手を差し出す。差し出された血に塗れた赤い手を、少女の白い小さな手が握り返した。
 白く柔らかな手が赤く染まるそのさまを、男は苦痛をこらえるように歯を噛みしめて、ただ静かに見つめていた。

 少女はすでに気づいていた。自分の運命も、男が自分を守り続ける理由も。
 すべて知っていて、今までずっと守られていた。
 すべて知っていて、決意と共に男の手を取った。

 男は気づいていなかっただけなのだ。
 幼い少女に宿る修羅に。幼い少女が既に、闇に魅入られていることに。
 少女が闇に飛び込むことは、遅かれ早かれ必然であったということに。

 男の手を取ったその時。少女がその身に纏いつく紅い闇と共に生きる道を選んだ、その瞬間だった。