差しのべられた手を振り払えなかったのは、与えられた言葉があまりにも愛しかったから。 夕食時で賑わう食堂の中で、その一角だけは異様なまでの静けさを漂わせていた。 部屋の隅に置かれたテーブル。席はちょうど部屋の角にあたる部分にあり、向かいの席の後ろにはなぜか観葉植物が置かれている。おかげで視界は一方向にしか開かれていないというありさまだ。普通鉢植えは部屋の隅に置くだろうと、思う人間も決して少なくはない。 その一種隔離されたような状況が、席とその周りの雰囲気さえをも隔てているのかもしれない。 テーブル席のまさに部屋の隅に収まるようにして、男は黙々と食事をとっていた。向かいの席は空で、少し顔を上げれば視界に飛び込むのは冬でも緑を絶やさない観葉植物の葉。 その妙に静かな雰囲気のせいか、それとも彼自身から近寄るなというオーラでも漂っているのか――おそらくそのどちらも正しいのだろう――二人用の席を半ば一人で陣取っているというのに、男を咎める者はいない。また、相席をと申し出る者も一人とていなかった。 その方がいい、と男は思う。人との煩雑な関わりは好むところではない。 人との関わりなど、必要最低限以上には持たないにこしたことはない。特に自分のような、他者とは違うものを持った人間は。 目の前に突然影が落ち、ふと気がついた。どうやら思考にふけりすぎていたらしい。すぐ横に立たれるまで、人の近づいてくる気配に気づかないなんて。 ついと視線を横に向け、そのまま上向ける。予想もしなかったことにそこに立っていたのは女性だったから、男は驚いて、長い前髪の下で目を見開いた。 肩口で揺れる絹を織ったかのような滑らかな黒髪に、意志の強そうな漆黒の瞳。女にしてはかなり背が高い。 人の容姿にさほど関心のない男の目から見ても、女は十二分に美しかった。美しい、なんて形容詞をつけてしまったものだから、直後その口から紡がれた言葉に、再び男は唖然とした表情を隠せなかった。 「な、ここ空いてるよな? 空いてるんだよな? だったら座るぜー、座るぞー」 ずいぶんと男らしい言葉遣いであった。 男の向かいの席を指さして告げると、返事も聞かず女はそこに腰かけた。次いで、手に持っていたグラスをテーブルに置き、反対の手にあった酒瓶からなみなみ酒をそそぎいれる。 琥珀色の水面がゆらゆら揺れたかと思うと、女はグラスを掴んで一気にその中身を飲み干した。素晴らしいまでの飲みっぷりだ。言葉遣いに負けず劣らず男らしい。かと思えば、間をおかずに再びグラスを酒で満たしはじめる。 ――なんなんだ、この女は。 男は自分が混乱しているのを感じていた。 なんなんだこの女は。突然人の返事も待たずに向かいの席に座り、ものすごい勢いで酒を飲み始める。そのさまはまるで水でも飲んでいるかのようだ。これだけの勢いでも酔う気配は全くない。何者だ。 見る限りでは二十代半ば、男よりも若干年下に見えるが、にしてはこの態度はひどく不躾ではなかろうか。 「なあ」 不覚だ。またしても考えにふけっていて気づかなかった。いつの間にか女が、自分の方をじっと見ている。 あまりに真っ直ぐと見てくるものだからなんとなく居心地が悪い。深い色合いをした瞳に心の中まで見透かされそうで、男はついと視線を逸らした。あからさまではあったが、自分が会話をする気がないという意思表示には十分だったはずだ。 それ以前に、男と会話をすることは『事実上不可能』であることも理由の一つではあった。 しかし女は気にした様子もなく、突然男の目の前に手を伸ばしてきた。驚いて椅子ごと後ろに後ずさろうとしたが、壁際ではそれ以上さがりようがない。 伸びてきた女の手は、男の前髪をすくい上げて止まった。思いの外白く細い、けれどよく見ると細かな傷の多く残る手に、燃えるような赤毛はまるで滴る血のように映える。 そのまま顔を、鼻先がぶつかりそうなくらい近づけてきて覗きこまれる。 前髪に隠されていた顔がさらされ、黒曜石の瞳が直接男の瞳を捉えた。 視線が交わされる。 刹那の後に男は顔ごと目を逸らした。食堂の隅は灯りも完全には届かずどこか薄暗い。はっきりと見えていなければ、いいのだけれど。 横を向いたままちらりと女を見やると、女はまだ男の方を見ていて再び慌てる。 本当に、なんなんだ、この女は。人のことをいつまでもじろじろと見て、不躾にもほどがある。 まだ前髪を持ち上げられたままだったことを思い出して、男は女の手を軽く払った。それは当然の権利だったはずだ。 だが手を払われた女はそれすらも意に介さず、執拗に男を眺めまわしていた。かなり、しつこい。 じろじろとしつこく眺めまわしたあと不意に、女は口元ににやりと深く笑みを刻んだ。実に愉快そうに笑う。思わずそちらに顔を向けると、夜色の瞳が、再び真正面から男を見据えた。 その直後の言葉は、たった一言で男の心を捉えてしまったのだ。 「いい色してんな、それ」 そう、たったの一言で。 |