うしろを振り向いてはいけない。 遠目に見てまず目に入ったのはその色だ。
 燃えるような真紅の髪。いい色だと、素直に思った。
 赤は、女の――ライティスの好む色だった。どのくらい好むかと言えば、赤ワインと白ワインのどちらが好きかと聞かれて、即座に赤と答えるくらい。
 他人からすると何だそれはと返されそうだが、この違いはかなり重要だ。何せライティスは三度の飯より酒が好きというくらいの無類の酒好きだった。あと煙草も。
 まあ話はそれたが、とにかく赤が好きなのだ。だから見た瞬間に、それがものすごく気になった。
 食堂の隅にひっそりと座る、燃えるような赤毛のその男が。
 見る限りでは男の年齢は二十代後半から三十ほどか。椅子に座っているのに頭がライティスの胸のあたりまであるということは、相当背が高い。185、いや、190はあるかもしれない。
 身長のせいもあってか細身に見えるが、肩幅は広く筋肉もしっかり付いていて、全体的に無駄なく鍛えられた体をしている。
 だがそんなことより、何よりライティスの気を引いたのは、やはりその見事な紅の髪だ。少し硬そうな髪は艶やかな光沢を放って、鮮やかなワインレッドの色を呈している。いい色だ、うん。
 その赤い髪は、顔の上半分を覆い隠すように長く垂れていた。いくらなんでも、少し長すぎやしないか。目が悪くなりそうだ。それでなくても邪魔そうだ。うっとうしい。見ているだけでうっとうしい。
 それとも何か、顔を見られたくない理由でもあるのだろうか。
 隠されると見たくなるというのが、人の心理というものだ。少なくともそれはライティスには当てはまっていた。ライティスは三十路前という年齢を裏切って、十代の娘のように好奇心旺盛だった。
 思い立ったら即実行。有り余る行動力を発揮して、とりあえず近くまで行ってみた。
 そういえば、いつものくせでつい気配を消して歩いていた。横まで立ったところでライティスが近づいていることに気づいた男が、慌てて顔を上げる。
 ライティスは何か問いただされる前に先手を打つ。
「な、ここ空いてるよな? 空いてるんだよな? だったら座るぜー、座るぞー」
 有無を言わせず向かいの席に座りこんだ。
 男は呆気にとられたような顔でライティスを見たあと、再びうつ向き気味で顔をそらした。先程から一度も口は開かれないままだ。何か一言くらい、文句なりなんなり言いたいこともあるだろうに。
「なあ」
 適当に声をかけると、男ははっとしたようにライティスを見た。その隙に、男の顔に手を伸ばし前髪をかき上げる。
 初対面の人間だろうが関係ない。唯我独尊を貫くのがライティスという女だった。
 さらりと触れた髪は思っていたよりも柔らかい。炎にも似た赤なのに触れればひやりと冷たいのが、当然のはずなのになんだか妙なことのように感じた。
 紅の内側からまず現れたのは、すっと伸びる整った鼻梁。健康的に焼けた肌は目立った傷もなく、酷く荒れている様子もない。むしろ男のものにしては綺麗すぎるほどだ。
 切れ長の瞳と、目が合った。
 その、髪の色よりなお深い真紅の瞳と。
 最初に思ったのは血の色だ。けれど、それは頭の中で即座に否定した。血の色と表現するには、それはあまりにも澄み切った色だったから。
 夕陽の色よりなお濃く、炎の色よりなお深く。
 美しいと、ただ一言で表現するのも何かが違う。
 ライティスは言葉も失くし、ただその色を見つめていた。
 いつの間にか二人の顔の間が、鼻先が触れそうな所まで狭まっていたことに気がついたのは、男が気まずそうに顔を逸らした時だった。実際見つめあう形になっていたのはほんの一瞬のことだが、我ながら少し大胆すぎたかもしれない。
 ――まあ、いいか。別に。
 そんなことははっきり言ってどうでもいいのだ。こんなもの見せられて、今更そんなこと気にしていられるか。
 さらりと流れる少し硬めの髪。その色だって十分美しいが、その中に隠された本物の赤を見せられてしまっては。
 もう一度正面から見たいと思った瞬間、男の前髪を持ち上げたままだった手がぱしりと弾かれた。加減されたのかまるで痛くはない。
 痛みはなかったが、その行動でわかった。なぜかわからないが、わかってしまった。
 男は拒絶しているのだ。
 それも、ただ人が自分に近寄ってくるのを拒絶しているわけではない。
 男は、自分自身を拒絶しているのだ。
 赤い髪と赤い瞳。血の色を思い起こさせるそれは、呪われた忌み子の色だった

 その色を持って生まれてきたことに、何の罪もありはしないのに。
 生まれた時から呪われているなんて、そんなことあっていいはずがないのに。
 男は忌み子の自分を拒絶して、その自分に人が近寄ってしまわないようにしているのだ。
 無意識の自己犠牲。馬鹿じゃないのか、そんなの。
 こんなに人を惹きつける色を持っていて、それを見せないだなんて。こんなに人を惹きつける色を前にして、それを見ることができないなんて。
 誰が、逃がすか。
 彼女は、ライティスは。どうでもいいことに対しては果てしなく投げやりだが、一度興味を持つととことんまで――時にやり過ぎなくらい――執着を見せる人間だった。
 そのライティスが、ここまで惹きつけられたのだ。それを、彼女がこのまま素通りで逃がすはずがない。
 にやり、自然と口角がつり上がる。獰猛な獣にも似た鋭い漆黒の瞳は、愉悦の光を孕んできらりと瞬く。
 そしてライティスは言った。男の関心を引きつけるには、十分すぎる力を持ったその一言を。
「いい色してんな、それ」
 釣った魚は大きい、はずだ。