子供のような目だと思った。言葉ではない何かでものを訴える、幼い子供のような。

「オレはライティス。ライティス・リスキーだ。お前は?」
 慌ただしくくるくると回っている給仕に食事を頼んだ後、ライティスはテーブルに肘をつきながら、手元のグラスを弄う。
 向かいの席に座る男は、未だに食べかけのまま皿の食事に手をつけない。ライティスに気を使っているのかとも思えるが、単にどうしたものか途方にくれているのかもしれない。
 男は逡巡するように視線を泳がせたが、口を開く様子は見せない。
 考えてみると最初からそうだ。表情は変えるのに、なぜか全くと言っていいほど口を開かないのだ。普通なら、多少なりとも声を上げたり何か言いかけたりしてもいいだろうに。
 ふと妙な違和感を感じて、ライティスは男の顔を覗き込んだ。男は相変わらず口を閉ざしたまま、途方に暮れたように視線をあちこちに走らせる。
「……お前もしかして、口がきけないのか?」
 半ば当てずっぽうに言ってみた言葉に、しかし男は驚いたようにライティスに目を向けた。しばらく戸惑うようにライティスをじっと見ていたが、やがて小さく頷く。
「んだよ。だったらそうとさっさと言えば……って、言えねえんだったか」
 ライティスはばつが悪そうに頭をがりがりとかくと、先程のディークのように視線をどこかにさまよわせた。探るように辺りを見やっていたが、何かを思いついたのか勢いよく立ち上がった。
 立ち上がって数歩進んで、不意に立ち止まる。そしてくるりと上半身だけで振り返る。
「いいか、すぐ戻ってくるから勝手にどっか行くなよ!」
 びしりと言い置いて、そのまま歩調も荒く歩き出した。

 少し歩いてちょうど部屋の向かいの隅にあるギルドの窓口へと足を運ぶと、先程挨拶を交わしたばかりの男に再び声をかけた。
「よお親父、悪ぃけど何か書くもん貸してくんねえ?」
「ああ? 書くもん?」
「そうそう。紙と、あと字が書くもん」
 男は一瞬目を丸くしたが、すぐに傍に置いてあった羊皮紙を一枚と羽ペンを一本、それにインク壺を一つつけてライティスに手渡した。
「ほらよ。しかしお前さん、そんなもんどうするつもりだ?」
「あー、ほら、あそこの壁の端っこにいる赤いやつ。話そうと思ったらあいつ口がきけないらしくてな」
 ライティスの言葉に、男はまたも驚いたように目を瞠った。
「話そうと思ったらって、お前あいつと話したのか?」
「あ? だから話ができないから書くもん貸せって言ってんだろうがよ」
 訝しげに言葉を返すと、ライティスはそれ以上会話を続けずに踵を返した。口調がそっけないのは、興味が一点に集中してしまっているせいだろう。いい年をしてあまり良い癖とは言えないが、本人に治す気がないから一向に治らない。それもまた、男に言わせれば今更のことだった。

 ライティスが席に戻ると、テーブルの上の皿は手つかずのまま、男は所在なさげな様子でそこにいた。ただしその顔は、いつの間にか赤い前髪で元通り上半分が隠されている。
「何だよ、飯くらいフツーに食ってりゃよかったのに」
 ずいぶんと勝手なことをのたまったライティスに、男は特に反応を示すことはなかった。口がきければ何か言ったかもしれないが、もし話せたとしても何も言えなかったかもしれない。
 反応を返さない男を尻目に、ライティスは当然のように向かいの席に再び腰を下ろした。席を立っていた間に運ばれていたらしい料理を一口つまんで、借りてきたペンと紙をテーブルの上に置く。
「そういや聞いてなかったけど、字、書けるよな?」
 書けなかった場合のことをまるで考えていなかったが、そこはそれ。問いかけに男が小さく頷いたのを見て、ライティスは満足げに笑った。
「ん。じゃあとりあえず、名前」
 端的な言葉は調子こそ穏やかなものの、男に反論を許さなかった。ともあれ、男は今さら反抗的な態度を取るつもりもないらしく、ペン先をインク壺に軽くつけると、さらさらと慣れた手つきで字を書き始める。逆さまから見ていてもわかる、整った字体。ペン先の描く、滑らかな軌跡を目で辿る。
「マラディク……ブラスト?」
 声に出して読み上げると、男が一つ頷いた。
「ふーん……微妙に呼びにくいな……なあ、お前なんかあだ名とかねぇの?」
 ライティスの問いに、男はほんのかすかに表情を変えた。とはいえ、顔の半分が隠れているせいでライティスにはどのような変化であるかはっきりとはわからなかったが。雰囲気からは、気を悪くしたわけではないことだけは見てとれる。男は少しの間動きを見せなかったが、ややあって首を横に振って見せた。
「あ? ねぇの? んじゃいいや、このオレ様がつけてしんぜよう」
 えらそうに言って見せたライティスの前で、男の表情がまたかすかに変わる。今度は、驚き。きっと前髪の下では小さく目を見開いているに違いない。意外とわかりやすいものだと、ライティスは内心で妙に納得する。
 それにしてもあだ名――というか愛称――がないとは、変わった男だ。ライティス自身愛称と呼べるものは特にないが、それはこの男の名前ほど呼びにくくないからだ。それとも男の故郷ではそういう名前が普通なのだろうか。
 ……思考がそれていた。いくら人のあだ名で自分が呼ぶためのものとはいえ、さすがに適当につけるわけにはいかない。その程度の思慮はあった。
「んー、あー、ま、いや、んー……でぃ……おっ、よし、決めた」
 しばし視線をうろつかせて思案していたライティスが声を上げた。にっと口角を吊り上げる。
「ディークだ」
 その呼び名は、ライティスが男に与えた最初のものとなった。