移ろい征く空の色
上.青空を塗りつぶした夜

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神の言葉のみが世界の全てではない


何故なら人は己の力のみで生きる術をもっているのだから


神に縋る者とはそれ即ち己が持つ生きる術を自ら捨てた愚者を指すのだ


君がもしこの世界で生きようと言うならばどうか強く、誰よりも強く生きてほしいと心から願おう


人は己の力のみでも生きゆくことのできる強さを持っているのだから










移ろい征く空の色
―上.青空を塗りつぶした夜―










 時は世界の暦で1476年。
 誰が名づけたとも知れぬ、ただいつからかヴィーダと呼ばれていたこの世界が生まれて過ぎ去った年月。
 世界の中央、カセルド大陸からヴィーダの全てを治める国、ルースヴェルク国が建国されて三百余年あまりが経過していた。


 王都近隣の名もなき小さな村に、一人の少年がいた。
 名をアズール。その名のごとき、深く澄んだ鮮やかな蒼の双眸を持つ少年だった。
 未だ年端の行かぬ彼がギルドの戸を叩いたのは、一体幾つの頃だったろうか。
 時が過ぎ青年へと成長する頃には、彼はその数々の功績により、人々の憧憬と畏怖の対象となっていた。
 大人でも一振りが精一杯なほどの大剣を二振り、軽々と扱って見せるその力に。
 まるで恐れすら知らぬかのように、誰に頼ることなく独り孤独に戦い続けるその姿に。
 どこか遠くを見据える虚ろな、それでいて見つめれば刃のような鋭さを見せるその蒼の眼差しに。
 いつしか人々は畏敬の念を込めて、彼をこう呼ぶようになった。
 孤高の戦士――蒼眸の銀髪鬼、と……


***


 しっとりと、弱い雨が降る。
 さわさわ、さわさわと、静かに静かに降り注ぐ。


 雨が

 大地を、

 森を、

 山を、

 丘を。


 隔てもなくその冷たい水疱の膜で覆っていく。

 もしも祈る神を持ち合わせていたとすれば、今彼はこの雨をより一層強く降らせるよう望むのか。
 それともこの止め処ない涙のような雨を止ませてくれと望むのか。
 この、
 僅かな希望と、絶対の絶望とを同時に呼び起こす透明の雫を。

 せめてこの降りしきる雨粒が、涙の滴ほどの大粒ならばまだよかっただろうに。
 希望を望むには、これではあまりにも儚すぎて。
 それでも
 絶望しようにも、もしかしたらという思いが胸を掠めて消えてはくれない。



この世に神など存在しない。

それが彼の答えだった。





 彼は空を見上げた。雨がその全身を伝う。
 額を、
 頬を、
 顎を、
 首筋を、
 まるで溢れ出た涙のように。

 それは知らない感覚、知らない感触だった。
 薄く開かれた口唇の中にも僅かな滴が零れ落ちる。
 雨に濡れしっとりと湿った髪にも伝って、
 幾重にも纏った服の下へと滑り込み、
 湿った服は身体に重く纏わりつく。

 重い
 冷たい
 気持ち悪い

 口蓋に入り込んだ水を吐き出すこともせず飲み下し、彼はゆっくりと空を見上げる顔を下ろした。
 暗い雲に覆われた夜に、眼前に広がった橙色の光。
 昼よりもなお明るく、夏よりもなお熱く。
 炎が、彼の故郷を飲み込んでいた。


 いかなくては


 ただそれだけが、今彼の中にあるすべてだった。
 燃えゆく故郷に大した感慨があるわけでもなく、
 橙色に包まれたそれを逆に美しいとすら思う。
 やがてそこは焦土と化し、雪のように白い灰だけが辺りを覆い尽くすのだ。
 それは表情の浮かばぬ彼の心を揺り動かすほどに蠱惑的ではあった。
 けれど


 いかなくては
 行かなくては


 あの中に、あの場所に、自分は行かなくてはならない。



 何故?



 置いてきたものがある。
 何よりも大切なもの。
 自分はそこに置いてきた。


 行かなくては
 いかなくては


 他のものに未練などありはしない。
 他はとうの昔に全て捨て置いた。
 けれど
 あれだけは
 自ら望んで手元に置いた、あれだけは。
 自分を見る、あの手負いの獣のような、震えながらも鋭い眼差し。
 今までに会ったどんな人間よりも強い力を宿したその瞳。

 蒼穹のように吸い込まれるような
 深海のように深く沈んだその色に

 どうしようもなく惹かれてやまなかった。
 怯えて一度弾かれた手を引き、半ば無理やりにでも引き連れてきたのは自分だった。
 震えながらも握り返してきたその手を、
 いつしか振り払えなくなっていたのは自分の方だった。


 (炎に灼かれた身体は既に朽ちてしまったかもしれないよ)
 それでもいい。それなら最後くらいは、君の傍で。

 (既にどこか遠くへと逃げ出してしまったかもしれない)
 それでもいい。生きているのならばなおのこと。


 金の翼を携えた、青き瞳の小鳥は傷ついた翼を羽ばたかせ、それでも高く大空へ
 舞い上がって、手の届かないところへと行ってしまったとしても


 それでもいいんだ



 人だから



 人は神を信じなくとも生きていけるから。
 自分の力を信じていさえいれば、きっと一人でも生きていけるから。
 たとえひとりきりでも。
 たったひとりきりでも、きっと。


 時はヴィーダ暦1476年。
 昏い空、降りしきる雨。
 燃え盛る赫き炎の中に蒼眸の銀髪鬼、アズールはその身を投じて消えた。
 その後、彼の姿を見たものは一人としていないと言う。



 世界は見た目だけの平穏に、沈黙した。





prologue -end-




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