移ろい征く空の色
上.青空を塗りつぶした夜 序章.紅に魅入られる

001.夜明けの匂い




 夜に支配された世界。
 街から離れた森の中で、灯る明かりは頭上の青白い月と無秩序に散りばめられた星の小さな銀光のみ。
 陽に暖められることのない冷えた夜風は草木を揺らし、掠れた枝葉の音が森の静寂に僅かな音という生命を与えていた。
 はらり、風に煽られ靡いたのは夜空と同じ漆黒の絹糸。絹糸のように滑らかな闇色の髪だった。
 夜の漆黒の闇に、その瞳はなんと鮮烈なことか。
 高く澄んだ冬の空を思わせる、深い冷やかな蒼色の双眸。
 一度硬く目を閉じて、それをゆっくりと開く。
 陶磁器のように透き通った白い肌に映えるその瞳で、彼女は夜空を照らし上げる真円に程近い月を見上げた。
 月明かりに照らされて、ほっそりとした首元から垂れる一筋の銀鎖が小さく瞬き、先端に付いた紅い石がまるで炎のようにゆらりと煌めいた。



      移ろい征く空の色
          ―序章 紅に魅入られる―




 この世界を構成し、縛り付ける国という名の一つの枠はこの三百年余りを存在し続け、今なお崩壊することもなく。
 秩序という名の檻を含有した強固な枠組みは目に見えずとも、常にすぐそこにあり続けている。少なくとも、表面上は。
 だがそこに生きゆく人々にとっては、そんな些細なことは欠片として意味を持たないのだ。
 朝になれば陽は昇り、夜になれば月がひっそりと顔を出す。
 世界のリズムは狂うことなく、世界にとって国など枷どころか一端の鎖にすらなりえないのだから。
 なれば世界を流れる旅人は、世界そのものにも似ているのかもしれない。
 何処かに留まることもなく、時の流るるがごとくに世界を巡る放浪者――その中でも殊更、彼女にとっては。

 響き渡るのは、機械が生み出すものにも程近い規則的な音。一定の間隔を刻み響くのは、何か高質な物同士がぶつかる無機質な音だった。
 いくら重ねようとも一切の変化を見せない、まるでメトロノームのように単調なその音はしかし、れっきとした人間が奏でたものだ。
 こつ、こつと。いっそ尊大なまでに緩やかに続くその音は、歩を進める一人の少女の足音だった。
 年の頃は十代半ば、未だ幼さの残る顔立ちはしかし秀麗と呼ぶに十分値する。
 触れれば折れそうなほどに細い四肢は、しかしその見た目とは裏腹にしっかりとした足取りを刻む。
 一点の曇りもないさめざめとした蒼の双眸に宿るのは、しかし少女ゆえの無垢ではなかった。
 それは世の中の酸いも甘いも、穢れも怒りも悲しみも憎しみも絶望も、全てを見てきたかのような深い色合いだったから。
 だからこそ、その蒼穹の瞳は酷く美しかった。
 彼女は扉の前でゆっくりと立ち止まった。何の変哲もない、少し安っぽく見える薄そうな木で作られた木製の扉だ。それがこの暗い鉱山跡の坑道にさえなければ、彼女とてさしたる興味も持たなかったに違いない。とは言え、彼女は決して興味本位などでこんな場所にいるわけではなかったが。
 こんな暗くて辛気臭い場所に好んで足を踏み入れるものなどいるものか、と彼女は思う。だがしかしその一方で、この奥に人間がいることもまた事実。
 彼らはここを気に入っているのだろうか? 今の自身の境遇に納得しているのだろうか?
 ……くだらない。彼女は嘲笑するように口角を歪めた。その嘲笑は、実際は何に向けられたものだったのか。
 自然と吊り上がる口元を、自分のその姿を、冷静な思考の中で何処か傍観するように眺めていた。
 無論それはその双眸に直接映ったわけではない。
 身体中の感覚を、頭から手足の、指先にまで至るその血流を、血脈を、さらにはそれを形成する肉体までもを、伏せた瞼の奥に感じ取ったのだと。
 少しずつ高揚していく感覚の中に僅かに残った冷ややかな思考が、ただそう捉えただけのことだった。
 息を潜め気配を殺す。それはまるで、獲物を狙う獣がごとく。
 言うだけなら簡単だが、実際は行うより言うが安し、それだけの技能を手に入れるためにはそれこそ血の滲む努力が必要だった。
 だからこそ彼女は何より自分自身の能力を信頼していた。過信はしない。だが自らを過小評価しすぎることは、自らを過信しすぎるのと同じくらいの愚行であることを彼女は知っていた。
 首の後ろで緩く編みこんだ見事な黒髪を揺らして彼女は立ち止まる
 眼前を見やると、彼女はゆっくりと腰元までその華奢な足を持ち上げた。口元が再び緩い弧を描く。
 洞窟の奥深くであるというのに、耳の奥で何処からか風の唸る音を聞いた気がした。


***


 およそ六年。その年月が指し示すのは、彼女が世界の放浪者となってから過ごしてきた歳月に他ならなかった。
 無論当初は、現在のように一人で旅をしていたわけではない。
 五年前、彼女は人生のあらゆる事柄における師とも呼ぶべき人と出会った。その人と共に過ごした年月がおよそ四年。そして昨年、十五の折に、彼女はついに一人で歩き出す決意をしたのだ。
 同時にそれは彼女の生きる目的を遂行するための旅の始まりでもあった。
 それを踏まえた上で彼女の言いたいことを代弁するとすればつまり、貧しい生活に嫌気がさして盗賊になったような輩とは年季も覚悟も違うということだ。
 命懸けの時を生きた時間も、命懸けの出来事を乗り越えた回数も。そしてそれらを乗り越えてきた意志と覚悟。

 その『輩』は幅の広いナイフを振りかざす。
 動きは鈍重というほど遅くもないが特に早いわけではない。なおかつ直線的な動きは至極読みやすかった。
 半ば自棄にも近い形相で襲い掛かってきた男に向かって後ろ足を一歩踏み出すと、半身を振り上げられた腕の横に滑り込ませる。
 まるで舞でも舞うかのような洗練されたその動きは、たとえ百繰り返されようと寸分違わず同じ所作となるに違いない。
 それほどまでに彼女の動きは、まるで人が歩くことと同じくらいに自然なものだった。
 そのまま滑り込む勢いと共にナイフを持つ腕を捻り上げる。同時に、振り上げた彼女の足は男の顎を直撃していた。より正確に言うとすれば、振り上げたブーツの踵、鉄骨の仕込まれた最も硬い部分が、だ。
 その威力は推して知るべし、体重の上で圧倒的に不利な彼女の攻撃が、一撃で相手を卒倒させたことを考えれば言うまでもないだろう。
 もしも彼女が時計さえ手にしていれば、この場に踏み込んでから刻まれた時が確認できたはずだ。だがそれを確認する必要はなかった。確認せずとも、大した時がたっていないことはわかっていたから。この場に足を踏み入れて、過ぎたのはせいぜい半時がいい所だ。
 辺りにぽつりぽつりと疎らに横たわるのは人影。時折思い出したように呻き声を上げるが、起き上がることも出来ずにただその場に倒れ伏すだけ。頭も上げられずに体を震わしては、小さく呻き声を上げるだけだった。
「なによ、いい年した男がちょっとくらい痛いからってうだうだ言ってんじゃないっての。なっさけない」
 とは言うものの、身体の何処かしらの骨を折られた男達の怪我は、重傷と呼ぶには十分なもの。鉄骨仕込の特注ブーツは、彼女の小柄で華奢な体格を補って余りあるほどの威力を発揮してくれた。
 最後に組み合った男の口元からは真っ赤な鮮血が溢れ出ていたが、顎の骨が砕けた程度では到底致命傷にはなりえない。
 彼女は半分無意識の内に小さく嘆息した。それは疲れと、ほんの少しの安堵が混じった溜息だった。
 緊張した筋肉を解すように小さく伸びをする。
「さて、もう一仕事、っと」
 両手に長いロープを携えて呟いた彼女の声は、先程とは打って変わってこの上なく上機嫌だった。


***


 地を叩く靴音が変わり、漸く彼女は街に戻ってきたのだということを実感する。
 何のことはない、ただ歩く場所が干乾びた土の地面から整備された石畳の地面へと変わっただけのことではあった。それでも、そのほんの些細な違いだけでも辺りの様相はがらりと変化する。
 洞窟――もとい田舎盗賊の根城に足を踏み込む前には、まだ空の端に引っかかっていたはずの太陽は既にすっかり沈みきってしまっている。
 代わりにその時空の端に顔を出しかけていた真円にも程近い月が、洞窟を出る頃にはその存在を主張するかのように天高く高々と昇りつめていた。
 だが時間が遅かったのは彼女にとって幸いだと言えただろう。
 彼女のような年頃の娘がぞろぞろと人相の悪い男達を縄で引き連れて歩く姿は、一種壮観なようでやはり何処か空恐ろしい
 そんな自身の姿の違和感を知っているのか知らないのか、彼女は人のいない通りの中央を堂々と歩きながら街の中心部へと向かっていた
 街の中央部に据えられているものといえば大抵相場が決まっている。その上、捕まえた盗賊達を引き連れた彼女が行く先といえば、役所の他にあろうはずもなかった。
 捕らえた盗賊を役所に引き渡さなければ、彼らにかかった報奨金を手に入れることは出来ない。
 この時代に善意で盗賊を殲滅させようという人間などいるはずもないのだ。いや、世界中を探し回れば何処かに一人くらいは見つかるのかもしれないが、少なくとも彼女はそうではなかった。
 そもそも彼女には嗜虐趣味はないので、このような物の数にも入らない盗賊の討伐自体があまり好ましいことではなかったのだが、何せ彼女は旅人だ。好まない仕事だからといって選好みをしていては、明日の生活にも困ってしまう。
 世知辛い世の中なのだと、彼女は自分を納得させつつ役所で男達を引き渡した。
 こんな夜遅くでは非常識かもしれなかったが、だからと言ってこんな人相の悪い男達と一晩を共に過ごすつもりは彼女には毛頭なかった。
 真夜中の訪問者にあまりいい顔をしなかった役人へ男達を引き渡して、漸く受け取った証明書を手に彼女は来た道を引き返していった。
 その場で金を貰えればこのような手間は省けるのだが、そんなことを役所勤めの人間に言ってみたところでどうしようもないこと。
 一見普通の酒場に見える建物の前で彼女は立ち止まった。一見どころか、中も凡そ普通の酒場と変わりない。
 ただ違うことはといえば、それは場の人間達が放つ雰囲気だろうか。
 老練、と呼ぶには彼女も含めまだ年若すぎる者もいるが、どちらにせよ一般人とは明らかに瞳に宿る光が違う。
 命懸けの日々を生き抜いた、刃を孕んだ鋭い光。彼女の瞳にもまた宿る、獣のそれにも似た強い光だ。
 大抵の場合、旅人が同業者を見抜くことはさして難しいことでもなかった。
 街道から少し逸れれば、そこは魔物と呼ばれる凶悪な獣達の住む世界だ。そんな世界を旅する者達には多かれ少なかれ死地を生き抜いた経験がある。
 逆を言えば、それがない者達の末路は目に見えたもの。死地を乗り越えたことのない旅人など旅人と呼ぶべくもない。
 彼女はその異質な雰囲気を持つ酒場の中へと、臆面も見せず足を踏み入れた。
 若い娘がそこに、それもこんな夜分にやってくることは珍しい。ともすれば途端に向けられる好奇の視線を気にも留めず、彼女は店内の一角へと足を運んだ。
 店の端に小ぢんまりと据えつけられたその場所は、しかし大抵の旅人ならば一生のうち何度も厄介になるギルドの窓口だった。
 少々大股気味にそこまで歩み寄る彼女の足が、その一歩手前で止まる。
「?」
 一瞬――そう、ほんの一瞬だ――なのに酷く目を惹きつけたその文字に、彼女は思わず立ち止まった。
 気の所為だろうという疑心暗鬼の中で、しかし目だけはしっかりとそちらに向けたままで。後になって気付くのだが、それは確かに守銭奴の目だった。
『報奨金:500000orb』
 視界に止まったものは、貼紙に書かれたその一文だった。
 今朝は確かになかったはずなのだが。
 ひー、ふー、みー……
 信じられずに目を向いてゼロの数を数えてみたが、変わらない。変わる筈もない。
 報奨金五十万オーブ。驚きに舌を噛みそうにすらなりつつも、彼女は早口で窓口の男に問いかけた。
「ねぇちょっといい?
 この貼紙。ほらここ、表示間違ってない? ゼロがひとつ多いとか」
 かなり抽象的な質問ではあったのだが、幾度となく同じ問答を繰り返したのだろうか。窓口番の男は彼女の問いに対してすらすらと淀みなく応えた。
「ああ、それ間違いじゃないですよ。
 実はその依頼昼に来たばかりなんですけどね、近隣の街じゃあそれは有名な話になってるらしいんですよ。まぁこんなでかいだけの田舎町だから情報が遅いのは仕方ない話ですけど。
 かなり前から出てるそうですがまだ解決されてないらしくてですね。
 もう何人も討伐に向かった旅人さんやら役人やらが返り討ちにされてて、それで額がそんなに跳ね上がってるんです」
 つらつらと聞きもしない部分まで語りだした窓口の男に、彼女はふぅんと気のない返事だけ返す。あくまで返事だけは。
 値踏みするように何度かちらちらと貼紙を眺め、必要な情報のみを記憶に収める。その中で最も重要な内容はやはりその報奨金の額であったが。
「へぇ、情報元はルザリアの街か。ここから丸二日ってとこね」
「お嬢さんその仕事請けるつもりですか?
 止めた方がいいですよ。これ、結構大勢の旅人さん達が受けたらしいんですけど、誰も戻って来てないって話ですから」
「あ、そ……まぁいいわ」
 それ以上は何に目を取られることもなく窓口の前に立って、先ほど手渡されたばかりの証明書を翳した。一瞬軽く目を見開いてそれを一瞥すると、窓口の男は静かに、先刻に比べてずっと事務的な口調で口を開いた。
「確認しました。
 では氏名と登録番号、それと登録証の掲示を」
 慣れたような口調で、早口ではあるのに一言も噛むことなく男は言った。
 左胸につけたブローチを右の手で軽く触れて、彼女は躊躇う様子もなく一息に言い放つ。
「ギルド登録番号10253、フィリスティア・ディスカード」




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