移ろい征く空の色
上.青空を塗りつぶした夜 序章.紅に魅入られる

003.春嵐の夜に献花を




「ったくほんっと腹立つわあの情報屋!」
 ぶすりと勢いよくソーセージにフォークが突き立てられる。その下にあった真新しい白い皿が辛くも破壊の刑を逃れ得たのは、それだけの理性がまだ辛うじてフィルの中に残されていたおかげだろう。
 捲くし立てるフィルの語調は荒い。
 対して、グラスに注がれた冷水を口元に運んだレンの様子は、至って冷静そのものだった。冷静、というよりは単に眠気が勝ってぼうっとしていただけなのかもしれなかったが。
 眠たげな青年の横には、フィルの気迫に気圧されつつも何とか会話を持とうと、懸命に頭を悩ませる少年の姿があった。つまりはフレイのことである。
「ま、まぁ、確かに人探しの情報一つで、5万ってのはいくらなんでも法外だよね」
「法外も法外!
 あいつ私が女で若いからってふっかけてんのよ。こっちは真剣に情報が欲しいってのに」
 フォークにぐっさり貫かれたソーセージが、手の動きに合わせてゆらゆらと揺れる。その行動はお世辞にも行儀がいいとは言えなかったが、そもそもテーブルに肘をついている時点で十分行儀が悪かった。
 ちなみに会話の主題とされている先程の情報屋は、フィルがレンに止められ渋々ながらも席を離れた隙に、さっさと何処かへと立ち去ってしまった。
 次に会った時は絶対しばき倒す。
 情報屋の青年の、いかにも軽そうな風体を思い出しながら、フィルは誰にともなくそう固く心に誓っていた。
「ほんっと、人探しなんてろくなモンじゃないわ。お金はかかるわ、ガセネタは掴まされるわで」
 揺らしたフォークごと口元に運んだソーセージを齧りながら、フィルは一人ごちた。すっかり冷めてしまっていたが、味はそう悪くない。
 時刻は完全に夜食の時間だが、フィルにとっては遅い夕食だった。
 フィルの言葉に会話の糸口を見つけたのか、フレイは漸く口を開く。
「人探しって……えーと……」
「フィルよ、フィル。
 あとどう見ても私の方が年上だけど敬称は略でいいわよ。ついでに敬語も。そんなもん慣れないだけだから」
「ん、わかった。
 あー、そういやこっちも忘れてたけど、オレはフレイ。でもって……」
 言いかけたフレイは一瞬ちらりとレンを見やったが、視線だけで促されて再びフィルへと向き直る。
「こっちはレンの兄ちゃん」
「ふーん……兄ちゃんって、あんた達兄弟なの?」
「見てわかると思うけど血の繋がりは血液の一滴たりともないから。
 まぁ、所謂旅の連れ合いってやつだよ」
「あ、そ」
 気のない返事を返しながら――と、そこでフィルは漸く齧りかけのソーセージを口に放り込み咀嚼した――ふと、フィルは先程からレンが二人の会話に全く入っていないことに気がついた。
 ついと視線を向けてみれば、そこには座ったまま腕を組み、軽く俯いて目を伏せる青年の姿。
 改めて近くで眺めてみるとよくわかるのだが、青年の顔立ちはそんじょそこらにはないほどに整っている。
 すっと通った鼻梁と薄い唇。肌は旅人にしては白いし荒れていない。
 白銀の髪は切り方が悪い所為か、それとも手入れを怠っている所為か酷く跳ね返ってはいるものの、指通りはよさそうだ。
 声も先程聞いた限りでは悪くなかった。高すぎもせず低すぎもしない、耳に心地よく響くテナー。
 そして弓形の眉の下、一級品のアメジストのように深い色合いをした紫暗の瞳は、今は硬く閉ざされた瞼の奥に隠れていた。
 愛想を感じさせない無表情は、しかし何処か安らか。その呼吸もまた、穏やかかつ規則的なリズムを刻んでいた。
 それはあたかも寝息のごとく――と言うより寧ろ、完全に寝息そのもの。
 それに気付いて唖然とするフィルに、フレイは多分に諦念の響きを含んだ、乾いた笑いを溢す。
「あぁ、まぁ、うん。いつものことだよ、いつもの」
 フレイの言葉が濁ってしまうのにも無理はなかった。
 その言葉に、フィルは呆れとも何ともつかない表情を顔に浮かべた――が、直後。その瞳に不穏な光が宿る。
 目にも留まらぬ速さでフィルの手が彼女自身の腰の裏へと回り、そして。
「食事中に寝てんじゃないわよ、この不心得者!!」
 一閃。その音を言葉で表現するとするならば、スパーン、が一番近いのだろうか。声とほぼ同時に、いっそ清々しいほどに小気味のよい音がその場に響く。
 何だ何だ、という声が口々に上がったが、その光景を目にした途端、場は一斉に静まり返った。
 寧ろ関係を持ちたくないとでも言わんばかりに、誰もが揃ってあちらこちらへと視線を逸らせ始めた。
 その場にいる、フィルを除く誰もが――無論フレイも含めて――関わり合いになりたくないと思ったらしい。唐突に何処からともなくハリセンを取り出して人を殴るような娘とは。
 そう、音源は真っ白な分厚い紙でできた物体、ハリセンだった。あと叩かれたレンの頭。何故ハリセンなのかは、誰にもわからなかった。
 いつの間にかフィルの手に現れた白いハリセン。荷物の皮袋の口はしっかりと閉じられたまま、身に隠す場所など何処にもありはしないというのに。
 一体そのハリセンは何時何処から取り出されたものなのか、と。
 沈黙は、そう問いかけていた。直接口に出して問う者はいなかったが、場の空気はありありとその問いをフィルにぶつけていた。
 それに答えるべくか、フィルは緩慢な動作で唇を開く。
「企業秘密よ」
 最早そこにはフィルの他に、口を開こうとするものはいなかった。最早誰一人として何と口にしてよいかわからなかったのだ。気まずい沈黙が蔓延り、早く自分以外の誰かが口を開かないものかとその場の誰もが思っていた。当然フィル以外。
 すると、叩かれた勢いでテーブルに突っ伏したレンが、のろのろと顔を上げた。心底不思議そうに、目の前の娘にそれを問いかける。
「……何で俺は今叩かれたんだ……?」
「あんたが食事中に寝たりなんかするからよ。まったく行儀が悪いったらありゃしない」
 では力の限りフォークをソーセージに突き刺し、あまつさえ肘をつきながらという食事態度はどうなのか。自分のことは棚に上げて、フィルはかなり偉そうだった。
「食ってるのはお前だけで俺は何も食ってない」
「…………あ」
 まるで今思い出したとでも言わんばかりに呟くと、一瞬ぎくりと顔を歪ませた。しかしフィルはテーブルの前に立ったまま、あまり豊かではない胸を思い切り突っ張って仁王立ちした。
「そんなもの私の知ったことじゃないわっ!」
 きっぱりと言い切った。そこに――フィルの周りに漂うのは、己が唯一正しいことを信じて止まない覇王の風格だった。大抵、そんな王は嫌われるものだが。
 さも自分が正しいのだと言わんばかりのその佇まいに、その場の誰もがやはり閉口する。
 問いかけたレン本人ですら、これ以上何を言っても無駄だと悟ったのか、再び腕を組んで椅子の背凭れに体重をかけた。
「そう言えば」
 フィルが、元の通り椅子に座りながら口を開く。つい先ほどまでその手に握られていたはずのハリセンは、いつの間にか何処かへとしまわれていた。
「あんた達、何で食堂に来て飲み物の一つも頼まないで水ばっか啜ってんの?」
 訝しげな顔で問いながら、フィルがコップのオレンジジュースをストローで啜る。
 レンとフレイは顔を見合わせた。そしてまるで兄弟のように揃って渋面を作ったのだった。


***


「あんたら実は馬鹿でしょ」
 フィルは目の端に浮かぶ涙を拭いながら言った。別に何が悲しくて泣いたわけではない。
 単に笑い転げたのだ。目尻に涙が浮かぶほど。
 それはそれは耳を覆いたくなるような大爆笑だった。時間が時間なだけに近所迷惑になりかねないと、周りの人間は危惧したかもしれない。
 ただし当然のように、フィル本人は何一つ気にする様子はなかったが。
 フィルがその白い指先でグラスに刺さったストローを玩ぶ。からりと涼やかな音を立てて、グラスの中で氷が踊った。
 漸く落ち着いた今ではそれを差して面白くもなさそうに見やり、再びテーブルに肘をついて華奢な顎を乗せた。
「大体、普通財布が軽くなってきたら気付くもんでしょ? 一体どれだけ杜撰な金銭管理してるんだか」
「全くもって仰る通りです」
 言葉に合わせて、じとりとした視線をフレイはレンに向ける。気づいていないのか、或いは気付かないふりをしているのか――恐らくは後者だろう――レンは、相変わらず口を引き結んだままの無表情。フレイと目を合わせることはしなかった。
 それは路銀を管理する者として、否、それ以前に年長者としてありうまじき態度だろう。駄目な大人のいい見本である。
 二人のそんなやり取りを見てフィルはやれやれとばかりに溜息を吐いた。笑いすぎて痛くなったのか、ストローを玩んでいた方の手で、軽く腹筋の辺りをさする。
「あー笑った。あー可笑しかった。
 ったくしっかたないわねぇ。さっきの情報屋との交渉も決裂したわけだし、ちょっと懐も暖かいし、ついでに笑うだけ笑わせてもらったから、お詫びもかねてお間抜けさん達にこの私が何か一品だけ奢ってあげるわ」
「えっ、本当に!?」
「ただし」
 目を輝かせて言ったフレイの声を遮って再び口を開く。僅かに上目遣いになって、フィルは口元に不敵な笑みを刻んだ。
「条件があるわ」
「条件?」
 首を傾げて反復したフレイにフィルはこくりと頷く。
「そ、条件。あんた達も見たかもしれないけど、ある仕事を私と一緒に引き受けて欲しいんだけど」
 ある仕事、と言われて、レンとフレイが視線を見合わせた。
「どうもその様子だとやっぱり見たみたいね、あそこに貼ってある貼紙の仕事。
 賞金は五十万。はっきり言って無茶苦茶おいしい仕事なんだけど、流石に私一人で受けるにはちょっときついかなって思ってたのよね。それであんた達にも手を貸してほしいってわけ。
 分け前は私が四、そっちが六――まぁどうしても嫌ならきっちり三等分にしてもいいんだけど――ってことでどう? 悪い話じゃないと思うんだけど」
 その問いかけに、レンは一度目を閉じた。一言も発することなく、暫しの間腕を組んだままの体勢で瞑目し、やがて薄らと目を開く。
 吸い込まれそうなほどに深い、夜の空のような紫暗。その色をした瞳がフィルの、真昼の空色をした瞳と視線を交錯させ、そして再びレンは目を閉じた。
 酷く永いようで、しかし一瞬のようにも感じられる時間だった。
 その間、フレイは何も言わなかった。一度も口を開くことなく、ただレンの言葉を待つ。
 返答を委ねられたレンは今暫く瞑目し、再び、伏し目がちにフィルを見つめた。
 やがて返された答えは――
「……いいだろう」
 先程から何度かその意を代弁したフレイの、少年特有の高めの声ではなく、僅かに目を伏せたレン自身の、低く通る静かな受諾の言葉だった。




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