移ろい征く空の色 濃い、橙色の世界。 何の色だろうか。 ゆらゆらと揺らめく光。 ――これは、火……? 燃え盛る、灼熱の炎。 すぐ目の前に広がっているはずなのに、酷く寒いのは何故だろう。 喉は熱い空気に、焼け付いたように熱く、ひりひりと痛む。 熱風に煽られているはずなのに、背筋が凍りついたかのように寒かった。 ――そうだ、これは……この日は、雨が………… 鉛色の雲が空一面を覆い、その重苦しい見た目に反して、雨は酷くささやかに。 頭上から止むことなく、さらさらさらさらと音もなく降り注いでいた。 身体が重い。 歩かなくてはならないはずなのに、足を動かすのも億劫だった。 この光景は恐らく夢なのだろう。 見覚えのある景色、幾度となく繰り返されてきた悪夢。 だがしかし、今回のこれは今まで見たどの夢よりも鮮明なように思える。 見る度に、褪せることなく、一層鮮やかさを増す夢。 それはこのままここにいれば、本当に炎に焼かれ死んでしまうのではないかと思えるほどに鮮烈な。 ――声が、聞こえる―― ――……ぃ……る…… 誰の、声? ――ル……フィル……! 誰を、呼ぶ声? 大きく見開いた目に映ったのは。 月の光の元で銀に煌めいて見える髪を、炎で照らされ紅くした、 炎の朱に照らされて、瞳を深い紫色に染めた―― *** たった一度きりを除いて。 炎の中で、貴方の呼びかけに答えようとする言葉は、いつだって声にならなくて、 音のない世界で、唯一聞こえる貴方の声に答える術すらこの手にはなくて、 いつだって、夢の中でこの声が貴方に届くことは決してない。 今までも、そして恐らく、これからも。 *** 「……ぁ…………」 小さな呻き声を上げながら、フィルはゆっくりと瞼を持ち上げた。 どうやら屋外にいるらしい。手には砂っぽい土と柔らかな草の感触。聴覚の戻ってきた耳に木々のざわめきが聞こえ、まだ僅かに焦点のずれた視界に映る空は、燃えるような橙色に染まっていた。 「あっ、フィル! 目が覚めたんだ、よかった」 「フレイ……」 ぼんやりとしていた意識が少しずつはっきりしてきた。上半身を起こそうと片手を地面につくと、誰かの手が支えるように背中に添えられた。 レンの手だ。相変わらずの無表情だったが、その手はフィルの身体を気遣うようにゆっくりと身体を押し上げた。 倒れた時の記憶が曖昧なのだが、血を吐いたのは確からしい。服にべっとりとこびりついて、それは既に固まっている。 口を抑えた際に掌にもついたらしい。 酷く不愉快だったので、フィルは手を服に押し付けて強く擦り落とした。服は汚れたが既に血塗れなので気にしない。 「で……結局何があったわけ? いつの間にか外に出てるし、血を吐いた後の記憶はないし…… 大体何でただ噛まれただけなのにこんなこと、に……っ!」 ふと、マウナ・ラウナに噛まれたはずの左腕を見て、ぎょっとしたように目を見開いて言葉を詰まらせた。 血は止まっている。寧ろ、あれだけ深く噛まれたのに、既に分厚い瘡蓋が出来ていることが、逆に不思議でたまらなかった。 そしてその傷痕を取り囲むように腕に伝う、蔦が絡みついたような黒い模様。 今にも這い上がってきそうなそれは、妙な躍動感を感じさせて気味が悪い。 「……何、これ」 呟いた声は思いの他冷静だった。この期に及んで、今更焦ったところでどうにもならないことは確かだったが。 「あ、うん…… オレも完全に理解できてるわけじゃないから、わかる範囲でいいなら」 「それでいいわ」 「わかった。えーと、何から話せばいいかな…… とりあえず結論から言うと、フィルはあのマウナ・ラウナに呪われたんだよ」 「呪われた?」 「そう。 そうだな、この世界の魔法に6つの属性があることは知ってるよね?」 フィルが頷くと、フレイは近くに落ちていた木の棒で、地面にがりがりと何かの図を描き始める。 出来上がったのは若干歪な六角形だった。それぞれの頂点に文字が書いてある。風、という文字から時計回りに、木、火、土、金、水。この世界のあらゆるものを司る六つの属性だ。 「一応確認しとくけど、フィルの魔法は風の魔法だよね?」 「そうよ」 あの時フィルがマウナ・ラウナへと放ったのは、大気を操り生み出した風の刃だ。風の月神、ガゼルの力を借りた風の魔法。 「うん、で、この属性なんだけど、魔物達の中にもそういう属性を持ってるヤツがいるらしいんだ。それも、風の大陸には風の属性の魔物、金の大陸には金の属性の魔物って感じでね」 「つまりこの大陸には土の月神の神殿があるから、この大陸に出る魔物は土の属性を持ってるって言いたいわけ?」 「そういうこと。 それでこの属性なんだけど、属性の中には相性の悪い属性てのがあって――わかりやすく言えば火と水かな――風と土は相性が悪いんだ。 だからつまり、今回とどめを刺すためにフィルが風の魔法で攻撃したから」 「魔物の不況を買って呪われたってわけね」 「多分、そういうことだと思う」 フィルは一つ、重々しく溜息を吐くと、空を仰いで片手で額を覆った。 そうと知らずに使ってしまったのだから仕方がないのだが、今考えれば随分と無茶をやったものだ。あの時腕と言わず全身に走った激痛も、早々に気を失っていなければ、それを通り越して気が狂ってしまったのではないかとも思う。 「そういえば結局のところ、その呪いってのはどうなったわけ? 何か気色悪い痕は残ってるけど痛みは全くないみたいだし……」 「あ、それなんだけど」 「……フレイに感謝するんだな」 少し離れた所から聞こえた低い声。いつの間にかフィルの背から手を離していたレンは、腕を組んで、近くの木に寄りかかるようにじっと立っていた。 街が近いとはいえ割と閑散とした所ではあるし、多分魔物が来ないかずっと気配を窺っていたのだろう。もしかしたら、単に魔法や呪いに関する話が退屈だっただけかもしれないが。 木陰から出ると、ゆっくりと二人の下に歩み寄ってくる。銀色の髪が、夕陽に照らされて紅く輝くのが眩しかった。 「フレイに?」 「一応、呪いはオレが封印したよ。 ただ……」 「ただ……?」 若干表情の曇ったフレイの表情を伺うようにして、フィルがその顔を覗き込んだ。フレイは言い難そうに暫く口を開いたり閉じたりした後、一度ぎゅっと唇を噛んで、意を決したように再び口を開いた。 「その、オレの付け焼刃な知識じゃ解呪は出来ないし、封印は多分新月の日には解けちゃうんじゃないかな、と思って」 「ちょ……っと待ちなさいよそれ、じゃあ次の新月までに解呪しないと私、死んじゃうってこと!?」 「や、もう一回封印をかけなおせば大丈夫なんだけど、何ていうかその、つまり」 「呪いを解くまでは同行せざるをえないということだな」 「しかも兄ちゃんの剣を媒介に封印しちゃったから、もう一回かける時にも、あと多分呪いを解く時にも傍に置いとかないとダメなんじゃないかなーとか思うんだけど……」 一瞬で思考が真っ白になった。 フィルは唖然とした表情をして次の瞬間瞠目し、更にその次の瞬間には先程のように額に手を当てながら天を仰ぎ見た。 あまりに急すぎる展開にくらりと意識を手放したくもなったが、そう都合よく気絶などできるはずもなく。寧ろ先程まで気絶していたぶん思考は無意味なほど冴え渡っている。 はっきりとした意識の中で色々な考えがぐるぐる駆け巡る。 「あー、つまるところ暫くは、私の気ままな一人旅生活はお預けってことねー……ふーんそー…………」 沈んでいる、というよりはやたらとやる気のない声。目も若干座っている。少し怖い。 直後、フィルはがばりと立ち上がった。その勢いで服についていた草がはらはらと落ちる。 「んじゃ! とっととルザリアまで戻るわよ!!」 「戻ってどうするつもりだ」 「決まってんでしょ? とりあえず賞金貰った後、とっとと呪いを解く方法を見つけるのよ!」 「あ、それなんだけどさ、神殿に行けば呪いを解く方法があるんじゃないかと思ったんだけど」 「マジで!? こっから一番近いって言ったら当然リーディアの土の月神の神殿よね。じゃあ次の目的地はリーディアで決まりね! 因みにあんた達に拒否権はないから!」 「自分勝手な……」 「どやかましい。 元はと言えばマウナ・ラウナを倒せたのは私のおかげなんだし、つまり私はあんた達の命の恩人なわけ。 そんな私が困ってるのにあんた達に拒否権なんてあるわけないでしょ。何か文句ある?」 あまり困っているようには見えないが。 「…………別に」 呟いて溜息一つ。レンは渋々といった様相で街に向かって歩き出す。フレイがその後を追い、二人の後姿を見ながらフィルは空を見上げた。 空は茜色に染まり、眩しいくらいに辺りを照らし出している。今夜は確か満月だ。 だがフィルはあの祝詞を口にすることはしなかった。 そんなものに頼らずとも。 神に願うことなどなくとも、きっと。 それはあたかも祈りのごとく。 フィルは胸元の紅いペンダントをそっと握り締めた。 いつかきっと、必ず見つけてみせると。 そう声にも出さずに誓い、先を行く二人を追うように、フィルはまた一歩足を踏み出した。 移ろい征く空の色 序章―終― |