移ろい征く空の色
上.青空を塗りつぶした夜 一章.週末には薔薇の花束を

006.アタラクシアなんて




 生まれて始めて目の当たりにした外の世界。
 遮るものなどなく、何処までも続いていくその広い存在に息を呑んだ。
 そこで何よりも、何よりも印象に残ったのは。
 人工の灯りに害されることのない柔らかな星の光でも、真昼の騒がしいまでに耳に残る街の喧騒でもなかった。
 朝焼けの、夕焼けにも劣ることのない、鮮やかな橙色の光。
 燃え盛る炎にも似て、それでいて、泣きたくなるほどにどこか優しいその色に。
 夕焼けを共に眺めた遠い日のことが急に懐かしく思えて。
 少女は無言で、眦に浮かんだ涙をそっと拭った。



      移ろい征く空の色
          ―第一章 週末には薔薇の花束を―




「あ、フレイ、そこのそれちょっと取って」
「それ?」
 指で指し示された先に目を向けると、少年はそこにあった林檎を一つ手に取った。
 林檎は真っ赤に熟していてちょうど食べ頃だ。そのまま齧ってもよさそうだが、軽く火を通すと甘味を増す林檎は、薄く切ってパイに乗せるのもいい。
 熟れた林檎は傷んだところも見当たらず、商品の鮮度に対して値段も手頃なところが旅人には嬉しい。
 手に取ったそれを少年は軽く放り投げた。放物線を描く林檎は、青い空に切り取ったかのような赤が酷く映える。
「そうそうそれ。ありがと」
 放られた林檎を片手で危なげもなく受け取ると、彼女は購入品の中にそれを追加した。
 どう見ても一人分では到底ありえない量の食料をぼんやりと眺めながら、少年はふと、今頃宿に一人でいるはずの青年のことを思いやった。


***


 その街、リエラベスクの街に着いたのは、彼らが出会ってからちょうど一週間ほど後のこと。炭鉱でのあの出来事の後から、既に4、5日が経過しようとしていた。
 街道を行く旅に全くつつがなかったとは、フレイは決して思わない。というか、思えない。
 『全く』どころか、ありすぎて余りあるほどだったと言っても過言ではないのだから。
 彼らがあの、ある意味で壮絶な出会いを遂げたのはクイスナ大陸北東端、キエラ大陸との連絡船が出航する港である、グラスカの街。
 更に炭鉱の街ルザリアへと移動し、魔物マウナ・ラウナを倒した後で報奨金を受け取った彼らは、一日の休息の後、すぐにリーディアへの道程を進み始めた。
 流石にヴィーダ三大都市の一つに数えられるだけあって、リーディアまでの街道は今まで旅をしてきた中でも殊更丁寧に整えられていた。
 そういう意味では、旅の行程は非常に楽なものだったのだ。難を言えば、確かにあの坑道をぶち抜いて街道にしてしまえば、もう少し旅の行程も短くなっただろうというくらいで。
 貴族出身でもなんでもない単なる旅人の彼らだから勿論徒歩でではあったが、街道が整えられているということはその分歩きやすく疲れ難いということだ。普段道なき道を行くこともあるのだから、と考えれば、多少の遠回りは黙認できる。
 無論旅の行程におけるフィルの行動にもなんら問題はなかった。寧ろ共にあって心強いと感じるくらいだ。この年で、その上女だてらに一人旅をしているのだからそれも頷ける。
 整備された街道に魔物が出ることは少ないが、野宿をすると当然見張りをつける必要もある。だがフィルはそれに対して一切文句を言うこともなく、野宿そのものにも手馴れた様子だった。
 旅慣れたその所作は問題どころか、手練の旅人が見ても、賞賛するに値するものであったはずだ。
 寧ろ問題があったとすれば、それはフィルではなくレンの方にこそあったのだろう。
 何しろレンときたら、旅人として――というより寧ろ一般人にしてみても――到底信じられないようなことをして見せたのだから。
 いくら一つの仕事を共に解決したとはいえ、まだ三人が出会ってからの日は浅い。元より共に旅をしていたレンとフレイとは違い、後から同行することとなったフィルとしては、暫く同じ旅路を行く仲間のことを少しでも知っておきたいと思うのは決して不思議なことではない。
 フィルとフレイの会話については特に問題点はなかった。年も近く、先日の一件で互いに魔法を使うことがわかり、共通の話題にも事欠きはしない。
 問題はレンだ。元々口数の少ない彼は、自ら自身のことについてを語りだすことはまずない。
 だからフィルの方から話しかけてみたというのに。彼から帰ってくるのは『ああ』と、なんとも等閑な返事ばかり。
 それが一度に止まらず、幾度となく同じ返事ばかりが返ってくれば、フィルでなくとも奇妙に思うことだろう。
 レンとの旅に慣れきってしまったフレイならともかく、フィルがそれに腹を立てるのも無理はない。
 彼の態度は話しかける者の言葉を、半ば無視しているのと同義だ。
 腹が立つ、を通り越してあまりに不審に思ったフィルがレンの顔を覗き込んだ時の、そのときの表情といったら、それこそ言葉では形容し難いほどの驚きに満ちていた。
 これほどまでに自分の目を疑ったことが他にあろうか。いや、ないだろう。
 そんな台詞が周りの人間――とはいえそこにはフィルとレンとフレイの三人しかいなかったのだが――にありありと伝えるほど、それはわかりやすい表情だった。それほど、その光景はフィルにとってはありうまじきことだったのだろう。というか寧ろ、旅人にとってありうまじきことだ。
 基本的に街道というのは魔物が少ない。それは人の気配が多い街中に魔物は入ってこないのと同じ原理――かどうかは知れないが、とにかく普通の平原や山の中を歩くのに比べて魔物との遭遇率が低いのは旅人にとって周知の事実だ。
 だからといって。ゼロではないのだ。魔物と遭遇する確立は。
 そんな、魔物がいつ襲い来るともわからない場所で、まさかそんな行動を取るとは流石のフィルも想像だにしなかったのだろう。
 本人自身が割と他人から見れば奇怪な行動をとらないこともない、ということはこの際置いといて。
 紫暗の瞳を隠すように瞼を下ろした彼の、無意味なまでに安らかな表情。
 人が話しかけている最中、その上街道を歩いている真っ最中に、これは許されるのだろうか。寧ろありえるのだろうか。
 フィルの答えは恐らく『否、断じて否』。
 フレイは諦めの混じった表情で肩を竦めた。フィルの手が、フレイからは死角になった腰の裏へと伸びる。
 直後、静かな街道にハリセンの音が響いたのは、最早言うまでもないことだろう。


***


「さあーて、と。これからどうしようっかなー……」
 リエラベスクに着いた直後、フィルは小さくそう呟いた。そのまま、背後に立つ男共を振り返る。
 フィルがちらと視線を向けると、レンは街道を寝ながら歩いていた姿からは想像もつかないほどの素早い動作で視線を逸らした。
 その行動に文句の言葉をフィルが口にするよりも早く、レンはフレイへと向き直っていた。
 身長差の大きな彼らは、すぐ隣り合わせに立つとレンがフレイをほぼ垂直に見下ろすような状態になる。逆に言うと、フレイはほぼ真上まで首を上向けた状態になるのだ。長くそうしているとお互いに疲れそうな構図だった。
 真上からじっと見下ろされると威圧感を感じるのか、フレイの方は若干居心地が悪そうだ。
「……フレイ」
「へっ、なっ、何?」
「手を出せ」
「え……うん」
 有無を言わせぬ、静かな、しかしそれでいて厳かで確かな命令の言葉。
 フレイは思わずこくりと頷いて、言われた通り、素直に右手の掌を上に向けて出した。途端、レンの大きな掌がフレイの掌を軽く叩く。
 響くのはぱちりと軽い音。極弱い力だったため痛みも痺れもないが、その意図が掴めずにフレイは小さく首を傾げる。
 『何?』と問いかける前に、再びレンの口が開かれるのが視界に入った。
「後は任せた」
 それだけを囁くと、レンは自分の荷物だけを手に、ただでさえ長い足を素早く動かして、そそくさと街の中に入っていった。
 レンの言わんとしていることが理解できず、残された二人は唖然とした表情で、暫し呆然と立ち尽くす。
 ……
 …………
 ……………………
「……って、あーっ!
 あいつ、一人で一体何処行くつもりよ!?」
「ええぇ!?
 ……って、ああ、そうか、そういうことか……」
「そっかって何よそっかって!
 まさかあいつ、こんな真昼間っからあんな所やそんな所に行くつもりじゃ……」
「えーと、フィルが何を想像してるか知らないけど、多分違うと思うよ」
「違うって、じゃあ何処に行ったってのよ。あんたわかるの?」
「多分、宿屋に寝に行ったんだよ」
 呆れと諦念が等量、複雑に入り混じったような表情で、フレイは小さく息を吐いた。
 先手を取ったレンの意図を正確に理解した今、フレイにはやれやれと肩を竦めることしかできなかったのだ。
 概して女性の買い物が長いというのは、世のどんなに甲斐性のない男だとて知りえている周知の事実。
 無論時として例外は必ずあるものなのだが、フィルがその例外であるという保証は何処にもない。
 つまり面倒だったのだ。買い物に付き合わされるのが。もしくはフィルと連れ立って歩くのかどちらか微妙な所だが、半々といったところか。
 それで自分はさっさと宿屋に引きこもろうという魂胆なのだろう。
 ただしその場合、買出しに行かずに済むわけだが、かといってフィルを一人歩かせるのは心許ない。
 護身の面に関しては心配の必要など万に一つもありはしないだろうが、どうもフィルにはトラブルに自分から頭を突っ込んで行きそうな節がある。それがフィルの人間性によるものか、はたまたその性格によるものかは知れないが、一人で歩かせると何を起こすが想像がつかない。
 だからレンはフィルのことをフレイに任せて――決してフレイを彼より年上のフィルに任せたのではなく――先に街の中に逃げ込んだのだ。
 つまるところ、フレイはレンに先手を取られ、生贄としてフィルに差し出されたのである。
「えーと……
 じゃあ、オレも先に宿に行って休ませてもらおっかなぁ、なーんて……」
「行かせるわけないでしょう」
 こそこそと背後を通って歩を進めようとしたフレイの首根っこを、フィルの手ががしりと掴んだ。その細腕の何処にそんな力があるのかというくらいの怪力で、フレイの首元を掴んで放さない。
 これ以上無理やりにでも逃げようものなら、服が破れるか、それよりも先に首が絞まってしまう。
 フレイの背筋に冷たい汗が流れた。その背後で、フィルはどす黒いオーラを放ちながら、それでも口元だけは笑っている。
「ふふふふふふ……あんの馬鹿はよぉくも逃げてくれちゃったわね……
 まぁいいわ――あいつをしばくのは後として――フレイ、仕方がないからあんたに着いて来てもらうからね。買い物」
 フレイはフィルの言葉の何処かしらに、不穏な響きが紛れ込んでいるような気がしてやまなかった。
 爛々として輝く瞳はフレイに向かって言外に『逃がさない』と語っている。鋭く光る猛禽の瞳にも似たそれは、既に獲物を捕らえた捕食者の目だ。
 内心で悲鳴を上げながらフレイは、あのいつも眠たそうな銀髪の青年剣士を出会って初めて心の底から恨めしいと思った。


***


「…………騒がしいわね」
 テーブルの上に肘をつき、白く薄い掌の上に置いた顔を僅かに上向けながらフィルが言った。
 弓なりに整った眉が不機嫌そうに寄せられ、大きな透き通った蒼眸は同じように細く眇められる。フレイも思わずその音源へと顔を向けている。
 その時、刻限はちょうど昼過ぎ。二人は街の喫茶店にて昼食の最中だった。
 日当たりのよいオープンテラスでの昼食というのは、なかなかに優雅で気分がいいものだ。
 賑わう街の決して不愉快ではない人のざわめきをBGMに、行き交う人々の人間観察と洒落込んでみた。
 目の前を通り過ぎるのは茶色の紙袋を両手に抱えた女性、その足元を数人の子供達が走りながら声を掛け合っている。鬼ごっこでもしているのだろうか。
 実に平和な光景だ。空は雲もないほど快晴だし、風も穏やか。まさに平和を絵に描いたよう、と表現するに相応しい。
 軽い食事を取った後にデザートとして注文したオレンジタルトを齧りながら、カップの中、アールグレイの薫り高い紅茶を典雅な動作で啜っていた。
 どうやら子供のくせに――そう思うのはフィルの偏見に相違ないが――甘い物が苦手だと言うフレイは小さく顔を顰め、自身はノンシュガーの珈琲をさして美味そうでもなく啜っていた。
 しかもただでさえ苦いというのに、その上濃く抽出されたエスプレッソだ。ますますもって子供らしくない。
 天気がよいのと懐が暖かいの、それに店の雰囲気の良さとが相俟って、フィルの機嫌はそれなりに上昇傾向にあった。だというのに。
 レンの所為で下降気味であった機嫌が漸く上向いてきたというのに、何処からともなく聞こえてくる物が崩れ落ちる音と怒声。さらにはその中に悲鳴まで混じり始めた始末で、折角の午後の優雅なひと時が台無しではないか。
 はぐ、ともう一口。酸味の効いた柑橘類特有の甘酸っぱい香りが口の中いっぱいに広がる。さっくりと軽い感触を残すタルト生地がまた絶品。
 直後に耳に入ったのはがらがらと大きな物が引っくり返って、何かが高い所から転がり落ちたような音。再び耳にしたそれは、先刻の音から比べれば随分と近くで起きた音だ。
 そういえば騒ぎの中心がだんだんと近づいて来ている気がする。
 気付いて辺りに視線を巡らせると、少女が一人駆け寄ってくるのに気がついた。
 ふわりと、街娘が身に着けるにしては若干高級にも思える赤のフレアスカートが揺れる。それに合わせて、淡い色の長い髪も揺れていた。
 少女は何かから逃げるように走る。言うなれば脱兎のごとく。
 その後ろからは更に、いかにもといった風体の男が二人ほど駆けてくる。恐らく彼らが、少女が逃げようとしている相手だろう。
 計三人は人も物も多い街中で、ありえないほどのスピードで二人のいる店の方へと走ってきた。周りにしてみれば迷惑なことこの上ない。
「何かしら……修羅場?」
「修羅場って……それって何か違う気がするんだけど……」
「ま、そんなことはどうでもいいとして。
 ではフレイ君、道端でかわいーい女の子が、あからさまに人相も柄も悪そうでその上ぶっさいくな男達に追い回されています。
 さてそこで問題。こういう場合、君は第三者として一体どういった行動をとるべきでしょうか?」
 人差し指をぴんと立て、さも楽しそうに降格を吊り上げたフィルがフレイに問いかける。気分は完璧に教師だ。
 フレイはフィルの言わんとすることを正確に理解した上で不適に笑んだ。吊り上がり気味の猫目が、こちらも楽しげに細められる。
「んー、そだね、やっぱこういう場合は……」
 フレイは、彼にしては珍しく緩慢な動作で立ち上がった。
 焦る必要はない。ちょうどいい具合に傍に置いてあった掃除用のモップを手に取る。
 持ったまま待機すること十数秒。少女が物凄い勢いでフレイの前を駆け抜けた。勿論フレイには見向きもしない。
 それに合わせてフレイはその場に屈み込むと、手に持ったモップの棒を、ちょうど歩く人々の脛ほどの高さに伸ばした。
 柄を持つ手にぐ、と力を込める。彼の顔に、にやりと黒い含み笑いが浮かんだ。
「さりげなーく突込みを入れてみるべき、かな?」
「……ま、及第点ってとこね」
 それは一体どちらに向けられた言葉だっただろうか。
 タルトの最後の一口を頬張ってフィルが満足げな笑みを浮かべたのは、物凄い勢いで走ってきた男達が、フレイの差し出したモップに足をかけて派手に転んだのと、ちょうど同時だった。
 突然に足元をすくわれたわけだが、あまりに勢いがつきすぎていた所為で体を止めることができず、上半身のみがひたすら前へ前へと進み続けようとする。
 その勢いを殺しきれず、彼らの足は軽く浮き上がり更に上半身が前のめりになる。
 慣性の法則。そう呼ばれる自然の法則に則った男達の体が、勢いのまま地面に落ちて石畳の上を滑っていくのは、当然といえば当然の現象だった。
 石畳との熱烈な出会いを繰り広げ、そのまま滑りながらゆうに数メートルを進んだ男達はぴくりとも動かない。
 二人並んで全く同じタイミングに同じ格好で倒れた男達の姿は、なんと間抜けで滑稽なことだろうか。
 流石にこれで死ぬなどという落ちはないだろうが、どうやら気絶していることは確かなようだ。
 爪先で軽くつついて反応を返さないことを確認すると、フレイはフィルを振り返る。フィルは漸く、温くなった紅茶を飲み干したところであった。
「……一つ聞きたいんだけど、『及第点』って、じゃあどんな返答をすれば満点だったわけ?」
「そうね……
 『か弱い女の子に乱暴をはたらくことはこのオレが許さない! 成敗致す!!』
 とか言ったら、とっても面白かったと思うのよ。私的に」
「致すって……何処の方言だよ……
 フィルを楽しませるために大衆の笑い者になるのは遠慮したいから、オレは別に及第点でいいや」
「何よ、面白くないわね。つまんない男はモテないわよ」
「や、そんなところでモテてもあんまり嬉しくないし」
 微妙にずれた会話を繰り広げる二人は、自分達に向けられた奇異の視線に全く気付かない。いや、気付かないふりをしているのか。
 最早二人の興味は、完全に倒れた男達から逸れていることは確かだった。
「さてと。で、これからどうする?」
「そりゃあとりあえずは」
 フレイは立ち上がると、モップを先程あった場所に元通りに立てかけながら問うた。
 こちらも漸く椅子から立ち上がったフィルが、乱れた服の裾を直しながら道の先に目を向けて答える。
「流石にこんなことやらかしておいて、『じゃあ私達はこれで』ってわけにはいかないでしょ」
「ま、それもそうだね」
 道の先には少女が、呆気に取られたような顔でフィル達と少し先に倒れて動かない男達を、交互に見比べていた。




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