移ろい征く空の色 レンは小さく息を吐いた。それは安堵の息だ。 どうやら上手いことあの二人を撒けたらしい。 女と子供、どちらかというと標準より背の低い二人の姿は、人ごみに紛れて既に目で確認することは出来なくなっていた。 耳には微かに喚き散らす声が聞こえた気がしなくもないが、そこはそれ、空耳という事にしておくのが賢明というものだろう。 後々に今度は二人から詰られることになりそうだが、今は先の面倒より今の苦労を避けたいのだ。比べれば肉体労働を伴う分、疲労の度合いの不等式はどう考えても後者の方に大口を開けている。 そんな他愛もない思考を巡らせながらレンは更に歩を進めた。今度は適当な宿屋を探すために。 一つの街に宿屋は大抵いくつかあるものだが、そのどれもがこちらの提示する条件に敵っているなどという都合のいいことはまずありえない。 特にここ、リエラベスクはグラスカからこちら、リーディアへ向かう街道沿いにある唯一の街である。 そのためリーディアへ向かう、もしくはリーディアからグラスカ――つまり港へ向かう貴族達が訪れることも少なくはない。 貴族が普通の旅人の泊まるような宿に泊まるはずがない。つまり、当然貴族向けの高級な宿もこの街にはいくつもある。 そんな宿に泊まれるわけがないのだから、一般の旅人向けの、それも出来る限り安くそれでいて上等な宿を探さなくてはならないのだ。これがなかなか難しい。 とはいえ、レンとて伊達に何年間もあちこちを旅してきたわけではない。そういうのはある程度外装などから判断がつくものなのだ。 貴族向け然り、旅人向け然り、その他諸々危ない人向け然り。エトセトラエトセトラ。 辺りをざっと観察しながらレンは街中を進む。 流石に大都市と港との中継点であるだけあって街の人通りも多く、建物も石造りのしっかりしたものだ。 足元の石畳も時折馬車が通ることを考慮してか、随分と丁寧に整備されていた。 丁寧に整備されているという事は歩きやすいという事で、周りを歩く人にさえ気をつければ多少よそ見をしつつ歩いてもさしたる問題はない。元より余所見歩き――と言えるかはわからないが。半分寝ながら歩くことは――大の得意だ。 「……スウォード……?」 不意に後ろから声をかけられたような気がしたが、聞き覚えのない名だったため無視を決め込んでそのまま進む。 恐らく似た誰かと間違えて呼んだのだろう。下手に立ち止まって、何かの拍子に一緒に探すなんてことになったら堪ったものではない。 厄介事は最近の出来事だけで、もううんざりなのだ。 私は人違いですと態度で示した行動はだがしかし、それは思いの外強い力で服の裾を引かれることによって阻まれた。思わず溜息を吐きたくもなるというもの。 「……?」 レンは目を眇めて、怪訝そうな表情を浮かべて振り返った。見方によっては不機嫌そうにも映るかもしれない。実際機嫌は損なわれていた。 そのまま振り返ると視界に入ったのは道行く人ばかりだったので、若干視線を落とす。 自分より頭一つ分、もしくはそれ以上背の低い人間と長く行動を共にすると、自然とこういう癖がつくものだ。 「…………誰だ?」 そこで目に入った全く見覚えのない姿に、レンは思わず呟いていた。 服を掴んでいたのは年齢で言えば二十歳前後、しかしレンよりも若干顔立ちの幼く見える青年だった。面立ちだけでなく、体躯が全体的にレンより一回り以上小さいのも幼く見える理由かもしれない。まあ恐らくは二十歳になるかならないかだろう。 だというのに、後ろで束ねられた髪は根元から毛先まで、ものの見事に真っ白に染まっている。年嵩の老人だってここまで髪が白い人はそうもいない。 身長はレンよりも頭半分以上は低く、体つきも男にしてはかなり華奢だ。肌の色も病的と言っていいほど白い。身に纏うのが濃い色合いの服でなければ、存在すら希薄になりそうなほどに。 着ている服は街の人間が着るにしては随分と高級なもの。貴族の人間かとも思うが、それにしては一人で歩いているというのは奇妙だ。 そして、何よりも。 「あれ、違う……?」 白色の瞳は焦点が合っておらず、どう見てもそれは目の前にあるものを写しているようには見えない。なのに視線はしっかりとレンの方へ向けられているのだ。これほど奇妙なこともない。 訝しむレンの雰囲気を察したのか、盲目の青年は困ったように眉を顰めた。髪と同じ色の女のように長い睫毛が伏せられ、白濁、というより寧ろ純白と言っていいほど白い瞳に若干の影が差す。 それにしても、目が見えていないのならば何故、このような人の多い街中を一人で歩いているのだろうか。 「すいません、人違いだったみたいです」 その上どうやって、この人ごみの中で人探しをしようというのだろうか。 どうして道行く人の中で、ただ一人レンを探し人と間違えたのか。 一体何故、人違いをしていると気付けたのだろうか。 「じゃあ僕はこれで」 一言そっけなく返すと、青年は踵を返してその場から立ち去って行った。その足取りに危ういところはない。 疑問は尽きず、問いかける前に立ち去った青年のいた場所を暫し眺めていたが、旅の途中に会った人間だ。恐らくもう二度と会うことはないだろう。 そんな人間を気にしていてはきりがない。考えるよりも先に、レンは再び足を踏み出していた。 *** 「ラクス」 静かな声音に呼び止められ、盲目の青年は立ち止まった。 相変わらずその白の瞳は焦点が合っていないが、視線は真っ直ぐと一点を見つめている。 そこには、淡い灰色の髪を長く背に垂らした男が無表情で立っていた。無論、青年にその色や表情まで判別できようはずもないが。 制服や隊服、というよりは軍服に近いデザインの服を上から下まできっちりと着こなした男。腰元には一本の長剣が吊るされている。 男の髪は、高い陽の光に照らされ銀にも近い色で輝いていた。 淡い蒼の瞳で青年を捉えると、男は安堵したようにごくごく小さく息を吐く。 「ああ、こんな所にいたんだ?」 「お前が勝手にあちこちをふらつくから探しに来たんだ」 「それはそれは。ご苦労様だね」 悪びれもせず青年が労うと、男は再び息を吐いた。今度は、呆れや諦念の入り混じった溜息を。 表情にはこれっぽっちも出さないが、疲れにも似た感覚を感じていることは間違いない。肉体的ではなく、どちらかというと精神的な意味で。 対する青年の態度は至って普通。やはり、自分が悪いという思いは全くない。 「そうそう、さっきね、君に似た人を見かけたんだよ」 「そうか」 「見た目は僕が言えたものじゃないけど、雰囲気があんまり似てるもんだから、ついつい間違っちゃったくらいだよ」 「……珍しいな」 「でしょ?」 青年が口を閉ざすと会話が止まる。男の方は元より口数が少なく、彼から口を開くことはほとんどない。返事も大概にそっけない。 「それにしても、今からグラスカに向かうとして、フランベルクに帰り着くのは三日後か。予定より随分かかっちゃったなぁ、ほんとにちょっとした観光のつもりだったのに」 「あんな事態は想定外だったからな」 「全くだよ。まさか彼女らが僕達をダシに使って逃げ出すなんて、予想もしてなかったからね」 青年はつい先日まで滞在していたリーディアでの出来事を思い返した。 本来なら一週間も前にはリーディアを発っていたはずなのだが、予定外のアクシデントにより昨日まで出発が引き伸ばされてしまったのだ。 「確かにらしくない感じだとは思ってたけど、まさか本気であそこまでやるとはね。大概にして貴族だとか神殿勤めの人間ってのは行動力に欠けてるものだと思ってたのに」 侮れないな、と呟いて青年は再び口を閉ざした。後は黙々と男の後に続いて歩く。 ややすると、馬小屋が傍に建てられた大きな宿屋の前に辿り着いた。入り口前には馬車が一台止まっている。 貴族向けの宿屋ではあったが、青年も、ついでにいえば共である男もまた華美すぎることを好まなかったため、割と落ち着いた感じの建物だ。 やはり落ち着いた雰囲気の、しかし造りは上等な二頭引きの馬車の前で男は立ち止まった。 乗り込み口の前に立って、青年に先に乗るよう男が促す。青年は促されるままに入り口に手をかけた。 「ねえ、スウォード」 馬車の乗り込み口に足をかけた青年が、不意に男に向けて声をかける。 先程とは違い急に静かになったその声音に、男は怪訝そうに青年へと顔を向けた。 青年の顔に、先程の笑みは無かった。男も変わらず無表情なため、互いの顔に表情は無い。 意図して沈められた空気は、息苦しささえ伴って拭いようのない陰鬱さを漂わせていた。 「また、見つからなかったんだろう?」 「…………」 男は答えない。青年は何も映さぬ瞳でじっと男を見つめていた。男も無言で視線を返す。 暫しの交錯の後に口を開くのは、やはり青年の方だった。 「君は一体いつまで、当てのない探し物を続けるつもりなんだい?」 「…………そんなこと」 今更答えるまでもない。 はっきりと言い切った男に、青年は息を吐いた。やれやれと小さく肩を竦める。 返答は、半ば以上彼の想像したものにすぎなかったのだ。 「どうやら意味のない質問で時間を無駄にしてしまったみたいだね。さっさと帰らないといい加減父さんが煩そうだし、早く出発しよう」 「……ああ」 青年が馬車に乗り込むと、続いて中に入った男が青年の向かい側に座った。 がたん、と一つ大きく揺れた後、がらがらと音を立てながら馬車が動き始める。流石に造りがいいだけあって揺れは少なく、乗り心地は快適だ。 「……ラクス」 「何?」 「当てのない探し物をしているのは、お前とて同じだろう」 「……そうかもしれないね」 青年はそれ以上は答えず、男もそれ以上追求はしなかった。 がらがらと馬車の立てる音は騒がしいのに、その中は酷く静かだ。 まるでそれは自身の心の中を反映しているかのように。 沈黙は、二人の間に重く圧し掛かる。 青年は無言のまま窓の外の流れ行く景色を、見えもしない目でじっと見つめ続けていた。 |